BFP編集部 2001年4月
世の中に、誰かから傷つけられたり不当に扱われたりした経験のない人などいるでしょうか。また、神や他の人に対して罪を犯したことのない人などいるでしょうか。ローマ書3章23節に、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」とあります。罪を犯したゆえに、神が人問に熱望している輝かしい栄光の姿になれないという状態は、誰にでも当たり前に見られることです。
キリスト教神学の「原罪」、あるいはユダヤ教神学における、「罪を犯す気質」、このどちらを信じるにしても根本は同じです。人は罪を犯す可能性を持ち、そして実際に犯すということをこれらは意味しています。人問は動物ではありません。また、理解力と倫理意識を持っているゆえに、私たちの行動には責任が伴います。行動によって、さまざまな結果が生まれるからです。私たちは「罪の報いは死」(ローマ6:23)であることを知っています「罪」はこの世において、また永遠において、私たちを神から引き離すため非常に効果的に働きます。申命記24章16節は、「人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。」と明確に教えています。これは霊と肉の両方の次元における死であり、誰もこれを免れることはできません。
しかし、あわれみ深い神は、逃れの道を与えてくださっています。その「逃れの道」とは、罪の代価として要求される「永遠の死」に対する備え、「彼の恵みによる赦し」です。「赦し」は神からの一方的な押しつけではなく、私たちの自発的な悔い改めと、人類の救いという、神の恵みに満ちたご計画を受け取ることによってのみ与えられるものです。「罪」、「悔い改め」そして「赦し」……これらはともに結びついて働くものです。
今回のティーチング・レターでは、皆さまとご一緒に罪の根本的問題を考えていきたいと思います。しかしそれだけに留まらず、そのために神が用意してくださっている解決も見ていきましょう。「救い、あるいは罪からの贖い」は、主の恵みと、私たちの罪のために神ご白身が備えてくださったもの――イエス・キリストの犠牲によって、与えられたものです。これには、悔い改めと赦しという過程が伴います。複雑で難解に聞こえるでしょうか。大丈夫です。その過程全体について見ていくとき、神がどれほど大きな愛であなたや私を愛しておられるのかを知るでしょう。
|