パレスチナ人たちが何と言おうと、イスラエルはパレスチナ全土を強奪したり、あるいはアラブ人たちに国を与えずにいるなどということはありません。ヨルダン全土がパレスチナでもあるからです。オスロからワイ・リバー協定まで、これまでの和平交渉ではパレスチナ国家樹立への模索がなされてきました。しかしそこでは、このパレスチナ人の主権国家に何らかの国土を与えることが、イスラエルに対してのみ要求されています。
ヨルダンはパレスチナ人に何も与えていません。事実、イスラエルがヨルダンと交わした平和協定では、ヨルダンがイスラエルから領土を奪っていることになっているのです。さらに現在、1万8000人のイスラエル人が暮らすゴラン高原の引き渡しをシリアが求めています。たった400平方マイル(1035km2)のこの小さな領域は、イスラエルの水資源の3分の1を有し、豊かな農産物を供給する、新進的な軽工業が発展する地でもあります。
この地方に住むアラブ人を指して、「パレスチナ」「パレスチナ人」などの用語が使用されるようになったのは、ごく最近のことです。ユダヤ人たちがこの地に入植を開始し、経済を発展させて以来100年の間に、この地に職を求めてアラブ人の雑多なグループが各地から流入してきました。それらの人々が、1970年代に一民族として取り上げられるようになったのです。
アラブ・リーダーの一人、ウニ・ベイ・アブドゥル-ハディは1936年、英国のピール委員会に次のように語っています。「本当の『パレスチナ』などという国など存在しません。パレスチナとは、シオニストたちによって考案されたことばです。聖書にもパレスチナなど登場しません。パレスチナは私たちにとってはなじみのないことばで、シオニストたちが言い始めたことなのです」
1932年に刊行され、現在も発行を続けている『エルサレム・ポスト』紙は、昔は『パレスチナ・ポスト』紙と呼ばれていました。また、もともとこの地方に住んでいたユダヤ人たちは、「パレスチニアン」(パレスチナの人、人種、派、主義者、党を意味する)と呼ばれていました。
1946年、著名な歴史家でもある、プリンストン大学のフィリップ・ヒティ教授は、アングロ‐アメリカン調査委員会の前で、「(アラブの)歴史上、パレスチナなどというものは全く存在しません」と証言しました。彼はまた、地図上でパレスチナという地名を使用することに反対しています。なぜなら、それは一般的な米国人および英国人によって、ユダヤ人と関連づけて使われる表現だからです。
ユダヤ人の排除と、アラブの結束されたアイデンティティーの確立を求め、パレスチナのアラブ系住民を「パレスチナ人」と呼ぶ習慣が定着し始めたのは、1960年代初頭のことでした。しかし、1967年の国連安全審議会の決議条項第242でも、1973年の決議条項第338でも、パレスチナということばは全く使われていません。これは1970年代中頃、PLOによって初めて使用された呼称なのです。
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