敗北したアラブ側は1949年、戦後の休戦協定のための交渉において、1947年の国連分割案の割り当てをイスラエルはすでに受け入れたはずだと強く主張しました。敗戦後に彼らが強く要求したものは、戦争を起こしていなければ、一発の弾も撃つことなしに自分たちの領土とできたはずのものでした。アラブのこのような主張は、イスラエルこそが国連決議の侵犯者で、自分たちは国連とその決議の擁護者である、とアピールするためのものだったのです。
この事例からアラブ側が学び取った「限定済み責任戦法」は、現在でも利用されています。この理屈を使えば、侵略者は「たとえ負けても、もとの妥協案に立ち帰ってその権利を主張すればよい」という安心を得ることができます。そして、領土に関する妥協案を気軽に拒否し、戦争という賭けで一気に勝ち取ろうという態度に出ることができるのです。これは1948年、1956年、1967年、1973年、1982年の戦争で毎回使われてきたパターンであり、現在進行中の紛争においても、今なおアラファト議長によって利用されています。
◆事実31
実体のない言葉『パレスチナ』
現在、パレスチナ人たちは、彼らのいわゆる「パレスチナ国家」を、イスラエルの全国土および西岸地区、ガザ地区を含む、ヨルダン川の西側全土と定義しています。しかしPLO規約では、パレスチナはイスラエルとヨルダンの全土と定義されています。
アラブ側は、イスラエルが「パレスチナ全土」を強奪し、パレスチナ人に何も残さなかったと主張していますが、これは事実ではありません。1946年にトランスヨルダンがヨルダンとして独立したことが、「パレスチナ」をヨルダン川西側のみ(本来定められていた区域の20%)に限定する結果を招いたのです。1947年の国連分割案によると、この残った20%をさらにアラブ国家とユダヤ国家に分けることになっていました。しかし、依然として歴史的にヨルダンはパレスチナの一部であって、人口の70%以上がパレスチナ系アラブ人であることに変わりありません(ヨルダンの現在の国王アブドラ2世は、サウジアラビア人(父)と英国人(母)のハーフ。英国の保護下でヨルダンのエミールと呼ばれた彼の曽祖父は、第1次大戦後にパレスチナの80%に当たるこの地を英国から与えられた)。
ヨルダンが国連分割案を無視し、西岸地区(ユダヤ、サマリヤとしても知られる)を併合した1949年当時、ヨルダン傘下のパレスチナ系アラブ人は、パレスチナの82.5%を支配していました。一方、ユダヤ人は、1917年にそのすべてが彼らに与えられるはずであったパレスチナの、17.5%のみを保つ有り様でした(地図2参照)。
今日においても、ヨルダンは英国統治下にあった元来のパレスチナの80%を占めています。また、民族人口において、事実上のパレスチナ系アラブ人国家なのです。神によってルベン族、ガド族、そしてマナセ族に配分されたヨルダン川の東側の土地も、ヨルダンの領土内にあります。
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