アラブは1919年当初、パレスチナへユダヤ国家を受け入れる姿勢を示しましたが、その後、一旦独立して権力を握ると、ユダヤ人の移住とユダヤ国家への援助はおろか、興味さえなくしました。
東ヨーロッパではユダヤ人が虐待されており、そしてロシアとその周辺を支配していた共産主義が人々を弾圧していました。バルフォア宣言による啓発と、これら迫害を受けている人々を連れ出すための扉が開かれたことで、1919年に第三のアリヤー(移住)の波が起こりました。このとき5万人以上ものユダヤ人が移住してきます。しかし1920年代、アラブ側の気持ちが変わり、パレスチナにいたユダヤ人への本格的な攻撃を開始しました。戦いはアラブ側から始められ、それはユダヤ国家建国への希望をつぶそうとするものでした。
◆事実26
時が経つにつれ、英国は中東でのアラブとの関係が損なわれることを恐れるようになり、石油に関する英国の利権を守る道を模索するようになりました。第2次世界大戦が地平線に暗い影を落とし始め、石油の確保が最大の関心事になってきたのです。英国のアラブに対するおもねり姿勢と、その反動としてユダヤ人への冷淡な姿勢が明白に表れてくるようになります。彼らは、英国委任統治下パレスチナへのユダヤ人移住許可を極端に減らし、制限するようになりました。
1936〜39年にアラブ蜂起が起こり、1万人が命を落とします。英国が迅速に対処しなかったため大惨事となり、英国人1000人、ユダヤ人500人、アラブ人8500人の命が奪われました(ほとんどのアラブ人は仲間同士の権力闘争で死んだ)。結局、英国は厳重な措置をとり、蜂起を止めさせねばなりませんでした。この出来事で恐れを増した英国は、ユダヤ人の移住をさらに減らします。また1939年、英国白書(政府発行の報告書)において最悪の発表をしました。「次の5年間、ユダヤ人の移住許可は年間1万人とし、追加としてドイツ国家社会主義(ナチ)からの難民2万5000人、つまり5年間の合計で7万5000人とする」と、イスラエルへと移民できる人数を制限したのです。時を同じくして、ヒトラーが少なくとも600万人という人々を殺していたのです。
そのうえでこの白書はこう宣言しています。「今後10年以内に、独立したパレスチナ国家が樹立されることを希望する――」
このパレスチナ国家とはアラブ人の国です。第2次世界大戦中、エルサレムのイスラム法典解釈官ハッジ・アミン・アル‐フセイニ(現在のパレスチナ自治政府、ファイサル・フセイニ財務大臣の伯父)は、中東のユダヤ人絶滅準備のためにアドルフ・ヒトラーと会談したことがあります。ヤセル・アラファト氏も、母方の家系においてこの一族と親戚関係です。
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