この合意にはバルフォア宣言の実現を求めると同時に、「ユダヤ人の大規模かつ迅速なパレスチナ移住の奨励と、できるだけ早い緊密な定住と、広範囲な耕地の開墾実現のために……すべての必要な措置を……」という文言も含まれていました。
パリ平和会議で、ワイツマン博士がシオニスト問題について紹介した翌日の3月3日、アメリカ最高裁判所長官であり、シオニスト・リーダーでもあったフランクフルターに、ファイサルは次のように書き送りました。「アラブは、――特に我々の中でも教養ある者たちは、シオニスト運動に非常に深く共鳴するものです。……心から『お帰りなさい』とユダヤ人たちを迎え入れることを我々は希望します。……我々は、改革され正しい方向に修正された近東の建設のために、そして互いに二つの運動を完成させるために、ともに助け合い、働いていきます。ユダヤ人の運動は民族独立主義なのであって、帝国主義ではありません。この点では我々アラブ人も然りです。シリアには我々双方のための十分な土地があります(トルコ統治下では、パレスチナはシリアの一部に含まれていました)。もちろん、相互に相手の助けなくして真の成功はないと私は考えています」
自分たちの独立国家建設のために、旧オスマン帝国から広大な領土獲得を望んでいたファイサルは、この協定の受諾に際し、戦時中に英国がアラブと交わした約束の履行を条件としました。
しかし、フランスがシリアの委任統治を獲得し、シリア王を宣言していたファイサルをダマスカスから追い出したとき、この夢は一時的に打ち砕かれます。ファイサルへの慰めとして、英国は彼をイラク王の座につけます。英国植民地大臣ウィンストン・チャーチルは、アラブをなだめ喜ばせるために、さらに次のような努力をしました。ユダヤ人の国とされたはずのパレスチナから80%、およそ3万5000平方マイル(約9万650平方km)切り取って、そこに「トランスヨルダン」と呼ぶ新アラブ国家を作り、ファイサルの弟アブドラを太守に任命したのです(現在のヨルダン国王キング・アブドラ2世の曽祖父)。独立が認められ、国名がヨルダン・ハシミテ王国となる1946年まで、英国はトランスヨルダンを管理しました(地図2参照)。
 ◆事実25
ユダヤ人の祖国建設が約束されていたパレスチナの土地での、この最初の分割は、シオニストたちにとって大きな打撃となりました。1922年、国連でパレスチナの英国委任統治継続が決まり、他にどこにも訴える術もなく、ユダヤ人は土地分割をしぶしぶ承諾します。強調されるべきは、アラブ人が広大な帝国を望み、それを実現化してきたことです。現在、アラブ連盟は21カ国、合計500万平方マイル(約1295万平方km)以上もの領土を持ちます。それに比べ、ユダヤ人の領土はたった8000平方マイル(約2万720平方km)からなる1カ国しかありません。つまりイスラエルです(地図3参照)。
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