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 英国統治初期、この地域のユダヤ人とアラブ人双方の国民意識を高揚させる努力が払われました。大トルコ帝国は解体され、再び多様な民族グループに分解しました。数多くのアラブ、イスラム国家とともに、ユダヤ国家を中東に建国することへの見通しも非常に明るく見えました。

 1917年10月31日、英国戦時内閣はバルフォア宣言を承認し、11月2日に政府方針として正式に発表しました。その全文は以下のとおりです。

 「イギリス政府は、パレスチナにユダヤ人のための民族郷土を建設することに賛成し、この目的の達成を容易にするため、最善の努力を払うものである。ただし、パレスチナに現住する非ユダヤ人民の市民的・宗教的権利、および他の諸国におけるユダヤ人の享受する諸権利と政治的地位が損なわれるようなことは為されない旨、明確に了解される」

 バルフォア宣言は、英国の科学者で初期シオニスト・リーダーでもあったハイム・ワイツマン博士が、英国前首相のアーサー・ジェイムズ・バルフォア卿と交渉した結果、生まれたものです。博士はその科学的才能で、海軍省と軍需省に大きく貢献しました。たとえば、英国の勝利を助けたTNT(トリニトロトルエン=強力な爆薬)の発明も博士によるものです。彼の功績は、1915年から英国軍事大臣に任命されていたロイド・ジョージの関心を引きました。その間もずっとワイツマン博士は、彼に耳を貸すすべての人に対し、パレスチナにユダヤ人の祖国を建設する必要について彼の主張を語り続けました。その中にバルフォア卿とロイド・ジョージも含まれていたのです。

 英国がパレスチナを手中に収める直前の1916年、英国政権の交代が行われ、バルフォア卿は外務大臣に、ロイド・ジョージが首相の座につきました。ワイツマン博士は原稿作成を手伝い、バルフォア宣言は戦時内閣に受理され、政府方針となります。

 これは単なる「偶然」のなせる業だったのでしょうか。それとも、神の御手がご自分の約束の預言的結末に向け、歴史を動かしていたのでしょうか。

 バルフォア宣言はアメリカ合衆国と西欧列強の賛同を勝ち得ました。ユダヤ人たちと時を同じくして、アラブ人たちもちょうどオスマン帝国のくびきから自由になるところでした。当初は彼らも、バルフォア宣言受け入れの期待があったのです。

◆事実24
 アラブ世界で認められた指導者シェリフ・フセインの息子、エミール・ファイサルは、ハイム・ワイツマン博士(後のイスラエル初代大統領)や、他のシオニスト・リーダーと1919年、「パリ平和会議」で会談しました。そこで彼らは一つの合意文書にサインをします。それは「アラブ人、ユダヤ人の間の民族血族関係と絆を考慮し、アラブ国家とパレスチナの発展のため最善の協力をし合う」という内容の宣言をしたものです(1919年に、パレスチナは中東の一部としてユダヤ人のものと選定されました。地図1参照)。

 
 
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