税金もこの地を害するものでした。樹木の一本一本にまで課税されたため、地主たちは税金を払えないという理由で森の木々を切ってしまったのです。その木材はイスタンブール、ベイルート、ダマスカス、そしてカイロ間を走っていた貨物用蒸気機関車の燃料にされてしまいました。ガリラヤとカルメル山周辺に茂っていた豊かな森林は丸裸にされ、耕地だったところは湿地や砂漠に侵食されてしまいます。「パレスチナ」は本当に貧しく、全く無視された、重要な町が一つも置かれない地でした。
1867年にパレスチナを訪れたマーク・トウェインは次のように記しています。「……土壌は十分に肥えているが、雑草に占められている。――静かな嘆きに満ちた広がり……我々は全道程で一度も人影を見なかった……一本の木や藪さえどこにもなかった。やせた土地でもすぐ生い茂るオリーブやサボテンさえ、このがらんとした国には見当たらなかった」
パレスチナ王立委員会(英国)のリポートは、地中海沿いの海岸平野に関する1913年の報告を引用しています。「ガザから北に向かう道は、ラクダと荷車による運搬で夏のみ使用可能である……ヤブネ村に至るまで、オレンジ畑も、葡萄やその他いかなる果樹園も見当たらず……家々はすべて泥製。学校は存在せず……海に向かった西側はほとんどが砂漠……この近辺は村々も少なく、人口も過疎……多くの村々が住民に見捨てられ、無人化している」
フランスの文豪ヴォルテールは、パレスチナを「陰気で希望のない土地」と表現しています。簡単にいえば、トルコの統治下でこの地は見捨てられた状態にあり、過疎化していたのです。
◆事実20
今日、イスラエルの地は満ちあふれる命の喜びを謳歌しています。それはユダヤ人の帰還が始まった1800年代後半以降、国として回復されてきたおかげです。もちろん、この過程は困難や犠牲なしには済まされないものでした。ヨシュア記を思い出してください。「イスラエルの民を約束の地に入らせる」と、神が主権的に約束されたにもかかわらず、そこへ入っていくには数々の大きな問題や戦いを通らなければなりませんでした。聖書と神のご計画に敵対する者たちは、いつも反抗し、攻撃を仕掛けてくるのです。
1880年代、イスラエルの地はまだトルコの支配下にあり、パレスチナという名で呼ばれていました。この時期、まるで巨大な電磁石にスイッチが入れられたかのように、ユダヤ人たちが移住してき始めます。南はイエメン、北はロシア、西のモロッコ、東のイラクなどから続々と集まってきました。このときのイスラエル帰還運動は、それ以来120年以上に亘って押し寄せ続ける、一連の帰還の最初の一波でした。無数の困難にもかかわらず、何百万という単位でユダヤ人たちがシオンに帰ってきました。それを妨げようと働く力は、すべて打ち砕かれました。
最初のアリヤー(移住)は1880年代に始まります。ペタフ・ティクバ、ロシュ・ピナ、リション・レ・ツィオン、ゲデラ、そしてズィカロン・ヤアコブなどの新しいユダヤ人入植地が次々と出現しました。ユダヤ人たちが購入する土地は高額な値段で取り引きされました。そのうち73%は、もともとカイロ、ダマスカス、ベイルートに住む不在地主たちの所有地でした。
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