◆事実11
イエスはおよそ紀元前3年頃お生まれになり、その生涯をイスラエルの地で送られました。そして、この時代の宗教や政治の影響が、主の伝道活動に色濃く影響をおよぼしました。当時大ローマ帝国下におけるシリアの属州のひとつであったユダヤ地方の中でも、エルサレムはローマの直轄領でした。そして、伝道生涯の最後に、イエスはこの場所で十字架刑を受けられたのです。
ヘロデ王は二つの理由からあまり人気がありませんでした。第一は、ローマ人たちの手先であったこと。第二は第一の理由よりさらに深刻なもので、父親がエサウの家系出身のイドメア人であって、正当な王家の血筋ではなかったことです。これはローマにとっては都合の良いことでした。つまり、ヘロデは王としての才覚はあるが、同時にユダヤ民族から容認されていなかったので、民が彼に従って反乱を起こす心配がなかったからです。
しかし紀元6年、ユダヤの王座についたヘロデの子孫たちが無能さを発揮したため、ユダヤはローマ直轄領となりました。
ローマ直轄導入と時を同じくして、『熱心党』と呼ばれるローマに抵抗する運動グループが活動を始めました。これが最終的には紀元66〜73年の全面反乱に発展します。
 ◆事実12
紀元70年、134日間におよんだローマ軍のエルサレム包囲は、ローマの将軍ティトスのエルサレム略奪と、第二神殿の破壊という結末を迎えました。
1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスによれば、エルサレムだけで100万人の命が絶たれたと推定され、同時に国中の人々が数多く殺され、何万人もの人々が奴隷として売り飛ばされたと書かれています。
1000人近い老若男女が、死海西岸の山上にあるヘロデの宮殿『マサダ』を占拠し、立てこもりました。その後3年間、彼らを追撃しようと繰り返しローマの攻撃が試みられましたが、彼らは持ちこたえました。しかし、ついにローマ軍が要塞を破って中に踏み込んだとき、彼らは自ら死を選びました。捕虜になって屈辱を味わうことが耐えられなかったからです。10人がくじで選ばれ、10人のうちひとりが他の9人を殺し、最後のひとりは自害しました。1960〜70年代のマサダ発掘で、壊れた陶器のかけらに書かれた10個のくじが考古学者たちによって発見されています。
エルサレム陥落の後、サンヘドリン(大祭司が宗教、民事、刑事問題を裁くユダヤ最高議会)が、ヤブネとティベリヤに再召集されました。第二神殿の破壊に伴い、神殿なしでユダヤ教を存続していく方法を模索しなければならなかったからです。祭司たちは地域共同体のラビとなりました。礼拝の中心地が無くなったので、シナゴーグが各共同体の神殿となりました。ユダヤ教が生き残るために、こうした新たな聖書解釈がなされました。このときからラビ的ユダヤ教が始まったのです。
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