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紀元前165年、キスレヴ月の25日、ハスモン家一派が神殿を占拠しました。彼らは礼拝を本来の形に戻すべく、神殿を聖めました。その時、神殿で使われる灯火用の聖い油が一日分しかなかったにもかかわらず、神がその油を燃やし続けられたので、新しい油が準備されるまで8日間も燃え続けたと言われています。この奇跡から、『ハヌカーの祭日』が始まり、ユダヤ人は今なをこれを祝っています。イエスご自身も、『神殿奉献記念祭』として知られるこの祭りを祝われました。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」(ヨハネ10:22、新共同訳)
ハスモン家による治世のもと、ユダヤは非常に栄え、セレウシドからの独立も果たしました。ハスモン家のリーダーたちは、ソロモン王国時代に所有していた領土の大部分を回復しました。およそ80年間(紀元前142〜63年)に亘るハスモン王朝の間、ユダヤ人による統治のもとで政治的団結が達成され、イスラエルとエルサレムに再びユダヤ人文化が花開きました。
◆事実10
紀元前63年、ポンペイ将軍率いるローマ軍がこの地方を侵略しました。彼らはハスモン王朝のヒルカヌス2世を容認し、王に制限つきの権限を与えました。多くの反乱があったことからもわかるように、ユダヤ人はローマの統治を受け入れませんでした。この圧政下の中、以前の栄光を回復しようと、紀元前40年にマッティアス・アンティゴヌスによって最後の反乱が起こりました。3年後、ローマに敗北し、これによってハスモン家の統治にも終わりがもたらされ、この地は完全にローマの従属国となりました。
紀元前37年、ヒルカヌス2世の娘と結婚した家臣の息子ヘロデが、ローマによってユダヤの王座につけられました。対外政策には何の権限もないにもかかわらず、国の内政に関しては無制限の自治を認められ、ヘロデはローマ帝国東部でも屈指の専制君主となりました。ヨルダン川西岸のユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ、そしてヨルダン川東岸のデカポリスとペレアなど、この時代に使われた主な地方名は、新約聖書に見ることができます。パレスチナという地名は聖書のどこにも書かれていません。この呼び名は、イエスの死と復活の100年後にローマ人によってつけられたものです。
ヘロデは有名な建築マニアで、カイザリア(カイザルの名をとった)に巨大な港湾都市を築いたり、ベツレヘム南西のヘロディオンや、サマリヤ山中のセバスティア、死海西岸のマサダなどの要塞を築きました。
しかし何十年もの建築努力が集約したエルサレムこそ、ヘロデの建築コレクションの最高峰と言えるでしょう。当時彼はここを「奇跡の都」と評される場所にしました。ヨルダン渓谷からエルサレムに上ってきた巡礼たちの目に、オリーブ山から眺める神殿は息を呑む壮麗さで映ったに違いありません。
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