|
神の民は、明らかに主の重荷をともに負います
使徒パウロほど、主の重荷を主とともに背負った人はいません。イエスはご自身の心のくびきをパウロの肩に置かれました。それはキリストのご臨在としての明るい太陽に出会うことによってでした(使徒9:3-4)。そして彼は福音のために命を捧げ、多くの危険な目に遭いながらも、死んでいく世界に神のことばをもたらしたのです。私たちが霊的に成長していくとき、またそれによって私たち自身が変えられていくとき、教会いっぱいに人々が集まるようになります。そして神が示される他の人々にも同じ恵みを分かち合うために、自分自身が満たされて神のご臨在があふれ出るようになることを期待するのです。
|
|
|
神の民にはあふれるばかりの、桁外れの大きな喜びが現れています
私たちには、喜びに満たされるように十分な恵みが与えられています。しかし、使徒の働きに書かれたステパノのように、たとえ逆境にいるときでさえも私たちは神の喜びを現すことができます。彼は、自分を殺そうとするエルサレムの宗教的勢力の前で、詩篇16篇から大きな喜びを現したのです。この詩篇によって、死が彼をつかむことはできない(6節)ことを彼は知っていました。たちが困難なときにも主が私たちの右手におられて、私たちを助けられることを彼は知っていました(8節)。神は彼の、そして私たちの魂を陰府に渡すことがなく(10節)、神の臨在そのものが私たちを喜びで満たす(11節)ことを彼は知っていました。この知識が得た今、地獄から救い出されて永遠のいのちを約束され、地上でのすべての困難なときにも主のご臨在が現されることを保証された私たちには、主に喜び叫ぶ以外ありません。
|
◆私たちの役割は何でしょうか?
はじめに述べた二人の女性のように、私たちも高価で貴重な香油が入った石膏の壺を持ち寄り、主の御前にそれを壊して香り良き油を注ぎ出すべきです。私たちは祈りと礼拝のうちに、また日々のみことばと生活のうちにあって、主の御手に自分をゆだね、主のご臨在を求める者となる必要があります。
私たちは主にすべてをお捧げしているでしょうか。もしそうであれば、主が私たちのうちに住まわれるにつれて、周囲にいる、主に触れられる必要がある人々に主のご臨在を現す者へと私たちは変えられていくのです。
私たちは、この世から隔離して閉じこもるのではなく、私たちを取り囲む世界と人々の中にあって、塩となり光となる必要があります。イエスは言われました。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:13-16)
さあ、主をあがめましょう。他の人々を主のご臨在へ導くことができるように。
エルサレムからシャローム |