そうです。私たちは神の恵みによって、信仰により救われました(エペソ2:8-9)。しかし、もしその信仰が真実なものであるなら、私たちの生活にその実が現されるべきです。助けを必要とする兄弟に対して、本物の助けではなく口先だけの気安めを語る人を、死んだ信仰を説明するものとしてヤコブは描いています。ヤコブは、非常にユダヤ的・ヘブライ的なやり方で、信仰の学びと敬虔は私たちが周りの人々へ表す愛と親切の行いにも現れるべきであると言っているのです。つまりそれは、私たちのうちに存在する神の愛が人々に対して現わされていくことだからです。
クリスチャンの世界には献身・崇敬・敬虔を、ただ主の足元に座し礼拝を捧げ、限りなく主のご臨在に浸っている状態とする傾向があまりにも強くあります。事実、クリスチャン辞典では「デボーション(捧げる)」という用語を、日々主との静かな時間を過ごすことと説明しています。もちろんこのことも私たちの主への献身を示すことの一部ですが、しかしまた、私たちの生活の隅々にまで主のご臨在が伴っていることが日々の行いからも映し出されるべきです。私たちのうちに神さまが運んでくださっていることが行動となって現れ出るべき場所は、日常生活全体なのです。
自分たちはくだらない世俗を超越した存在だ、という思いにあまり強く捕らわれ過ぎないように気をつけるべきです。山の頂上から見下ろしてばかりいないで、下りてきて谷間の庭園で憩うときも必要です。多くの人はマルタとマリヤの話を、マリヤは主の足元に座って主の一言一言にじっと聞き入っていたのに対し、マルタはイエスをもてなすために忙しく心配していたと読むでしょう。マルタがイエスのもとへ来て、マリヤに手伝うよう言ってくれと頼むと、イエスはこう答えます。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41-42)
私のように活発で活動的な性分の人間でも、マリヤが良い選択をしていたことに賛成できます。主のご臨在の中で恵みに浸ることを尊重しない人が私たちの中にいるでしょうか。もちろんこれは「良い選択」です。このときマルタも、マリヤとともにイエスと一緒にいることを選択すべきだったことを私も信じます。主がそこにいましたから、家の中をあれこれ忙しく走り回るのをやめて耳を傾けるべきときだったのです。
しかし一方で、私たちの周りにはしなければならないことがたくさんあります。神の国においてもです。神の国も前進していきますし、協力や助けを必要とする多くのものが存在するのです。
この聖書箇所は、パリサイ人シモンの家におけるイエスの食事と対にするとき、バランスが取れると思うのです。私たちが極端に片寄らないためにはバランスが大切です。パリサイ人シモンの家では、彼が果たすべきことをしなかったことに対してイエスは叱責されました。マルタには座って聞きなさいとおっしゃいました。いつ準備や行動をすべきで、またいつ静まって聞くべきかを教え導く聖霊さまの薬が私たちには必要なのだと思います。
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