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ユダヤ教における献身と崇拝の強調点は、神の律法を口先だけでなく実際に行うことに置かれています。何年も前、イスラエルのアメリカ系ユダヤ人委員会名誉監督だった故バーナード・レズニコフ博士と話したときのことを私はよく覚えています。ユダヤ・クリスチャン関係の相互理解を深める働きの指導的存在であった彼は、世界中で出席した数多くの異教徒間カンファレンスについて意見を述べてくださいました。「ねえ君、ああいった集まりでクリスチャンたちが教義について何を信じるかあれこれ議論を戦わせているのを見て、私はいつも驚かされたものだよ。ユダヤ教では自分たちが何を信じるか論じ合うことなどあまり重要ではないんだ。我々にとって重要なことは、一人ひとりが何をしているのかということなんだ。言い換えるなら、我々の信じるものが生き方そのものにどのように映し出されているのかということさ。私は仲間のユダヤ人たちが、ある律法を生活の中でどのように行なっているのかが知りたいんだ。もし彼がそれを行なっていないのなら、彼がそれをどう信じているのかは私にとっては重要ではなくなるのさ」
私の良き友で師でもある正統派ユダヤ教徒のバーニーは、神のみことばを行うということについて多くを教えてくれました。しばしば彼はヤコブ書1章22節から25を引用します。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」
ユダヤ教では、神の律法を重荷ではなく祝福と見ています。神の律法を表すヘブル語はハラハーです。その語根ハラクの意味は、歩むこと、あるいは「道」です。ユダヤ人たちは、神が自分たちを豊かに愛されるがゆえに、日々喜んで歩み生きるための定式として律法を与えてくださったと受け取っているのです。
◆ユダヤ的新約聖書における敬虔と献身
クリスチャンにとっても、信仰と行いは同時にあるべきものです。私たちすべてにとって信仰の行いは心から進んでするべきもので、そうでないなら義務的な律法主義になってしまいます。
“ユダヤ的新約聖書”はユダヤ人の本であり、もちろんヤコブによって書かれた次のみことばにその考えを帰するものです。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:14-17)
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