◆ヘブライ文化における敬虔と献身
キリスト教の土台であるユダヤ教は、敬虔を人の最大の徳としています。『ミシュナー』に書かれているツァディック(義人)とは、私たちが仕える神が造られた世界をよりよく保つために貢献する者と考えられています(アヴォット5:1)。事実、ナハマニデスは「神の許しの範囲内で自分自身を聖別しなさい」と言っており、これは、つまり神の律法を犯さないだけでは不十分で、主の御前に神の律法が神聖とされることの証を自ら活発に求めていくべきだという意味です。
言い換えるなら、単に悪を行わないように慎むだけでは不十分であって、いつも良いことを行う準備をしているべきだということです。神に仕えることへの完全な献身は、シナゴーグ(クリスチャンには教会)の中にいる間だけのことではなく、生活のあらゆる分野にまで行き渡っているべきなのです。これは私たちが神との正しい関係の中にいるときのみ実現されます。
敬虔を志すとは、自分自身の人生と共同体自体を世から聖く別つことであり、そこから離脱することではありません。ユダヤ教においては、周囲の環境や社会から分離する意味での禁欲主義や修道生活を促すことは比較的少ないといえます。彼らにとって人が神と向き合うということは、孤独になって自分の内部を見つめるという方向へ突き詰めて走っていくことではなく、むしろ聖い共同体の発展に参加することが主体となっているのです。タルムード的解釈によれば、トーラー全体の究極的目的は平和の促進、つまり社会の向上に貢献することなのです。
これまでの歴史において、しばしばキリスト教ではこのユダヤ的ルーツとは対照的な思想を発達させ、世からの離脱と禁欲的・修道的ライフスタイルが敬虔さや義人を表す模範とされてきました。今日でもユダヤ荒野の岩肌には、以前クリスチャン隠者たちが住んでいた洞穴が、何百も点々と口を開けているのを見ることができます。もちろんイエスがなさったように、ある期間、天の御父と時を過ごし、御声を聞き、自分への召しを確認するために一人出て行くのは良いことです。しかし最終的な目的は、人々の中に戻って神が私たちのうちに何をしてくださるのかを証し、人々を主のもとに導くために働くことであるべきです。
偉大なラビ・マイモニデスは、その著書『ミシュナー・トーラー』で真の敬虔について以下のように述べています。「人が神の偉大さとその素晴らしい御業について深く思いを巡らせ、神の無比無限の知恵のひらめきを獲得するとき、その人はただちに主を愛しあがめるでしょう。……『我が全存在は生ける神を慕い求める』とダビデが言ったように。」(イェソド
ハ・トーラー2:2)
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