イエスはこのパリサイ人に、同じ金貸しから500デナリと50デナリの借金をそれぞれ帳消しにしてもらった人が二人いて、どちらの人のほうがより感謝し、その金貸しを愛するかと尋ねました。パリサイ人は、多く借りていたほうだと答えました。するとイエスは、この女性がしたことは罪が赦されるための彼女の献身の表れであり、彼女の罪を赦す力がご自身にはあることを示されました。
当時、一般的に行われていた来客に対する礼儀をこのパリサイ人が示さなかったこと、ご自分が到着したときに足を洗うための水も用意せず(44節)、両頬への挨拶の接吻もしてくれず(45節)、頭にオリーブ油を塗ってくれなかった(46節)ことをイエスは述べ、それに比べてこの女性が彼の足を涙でぬらし、キスで覆い(足にキスをすることは最も謙遜な姿勢でした)、非常に高価な香油を注いでくれたことを指摘されました。
中東の文化では、足は体の中の最も卑しい(低い)部分と考えられ、足を洗うことは今日においてさえ、相手に対する心からの謙遜と仕える姿勢を表すしるしです。事実、皆さんが今日のベドウィンのテントを訪問するなら、主人のほうに足の裏を向けて、地面にべたっと足を伸ばして座ることは非常な失礼に当たり、してはいけないことを知るでしょう。
自己の正しさを証明したいパリサイ人は、イエスを試すために家に連れてきていたので、しかるべき礼儀を示さなかったのです。しかし自分の罪深さに気づいたこの女性は、謙遜な、主をあがめる姿勢で赦しを求めに来たのです。イエスは言われました。「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」(47節)
イエスは、あなたの信仰があなたを救ったのだ、安心して行きなさいと彼女を送り出し、彼のことばにこだわり続けるパリサイ人が後に残されました。
彼女たちが深い献身を示す行いをしたことを、私たちの誰もが認めるでしょう。事実、壺の中の香油を注ぎ出す唯一の方法は壺を壊すことでしたから、それをしたということだけでも彼女たちの捧げる心がどれほど深いかがわかります。彼女たちにとって高価な値を払ったこの行いは、主への完全な献身を表していました。
壺は一度壊せば元には戻らず、油も戻りません。そして彼女たちのこの全き献身を表す行いは、どちらの場合も人々から批難を受けました。一方では女性を非難したのは信者でしたし、もう一方の場合は世の宗教的指導者でした。
主に年収を捧げ、同時にその完全な愛の行いのゆえに人々から(教会の人々からさえも)非難されるほどの献身の覚悟が私たちにあるでしょうか。
このことについてもう少し、私たちのための結論を引き出してみることにしましょう。
|