誘惑:誘惑と試練は全く違います。誘惑は、肉の喜びや利益を得るために悪を行なうように誘いそそのかすことです。誘惑は主から来るものではありません。悪魔から来ます。
ヤコブは言っています。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:13-15)
主の祈りの中でイエスは言っています。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)
また、こうも言っておられます。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(同26:41)
誘惑に陥ることは神のみこころではありません。しかし主は私たちが良い弟子になれるかを見るために、人生に試練が送られることを許されます。私たちは肉の欲、目の欲、そしてプライドによって試されます。ヨハネが言っていることを聞きましょう。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(第1ヨハネ2:15-17)
エバは蛇に誘惑されたました。しかし、ポテパルの妻から誘惑されたヨセフは不倫の罪を犯しませんでした。この事件で罪を問われて投獄されましたが、神はこれを用いてヨセフがエジプトの首相となる道を開かれました。ヨセフに地位があったおかげで、その地方一帯を襲った飢饉から、家族を救うことができました。主にある義の道を進んでいくなら、すべてのことが私たちの益とされるのです。
イエスは聖霊に導かれて荒野に出て行き、悪魔の誘惑を受けられましたが、罪に陥ることはありませんでした。イエスは人が受けるあらゆる誘惑を受けられましたが、罪を犯されませんでした。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)
残念なことに、私たちは皆たいてい罪に陥ってしまい、神の赦しが何度も必要となります。
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