◆あなたは生ける供え物ですか
はじめに見たローマ書のことばに戻りましょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:1-2)。
しかしながら、彼はコリント人にはこう告げました。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」(第1コリント5:7)。
これは矛盾ではありません。私たちは、自分自身の努力や犠牲によっては救われません(エペ2:8-9)。門に羊の血が塗ってあった家を、御使いが過ぎ越したように、イエシュアの血がいのちの門に塗られたことにより、死の使いが私たちのいのちを過ぎ越すのです。
十字架によって成し遂げられた救いを受け入れつつも、信仰、謙遜、悔い改めによって神の許に行く心の態度こそ、罪の赦しをもたらすものです。すべての供え物は、悔い改めが伴なってこそ受け入れられ、知らないで犯した罪も赦されるのです。罪を犯し続ける生活を送り、その中に生き続けるなら、何物によっても、その故意の罪、罪のパターンが取り去られることはありません。律法が人間に与えられるのは、「罪のゆえに、だれも律法を守ることができないことを示すためである」と教えています。神の恵みと救いによってのみ、罪が取り除かれます(ローマ5:12-21)。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:1-2)。私たちは分かりうるすべての罪(過ち)を告白し、悔いる心を持たなければなりません。また、犯したということを知らない罪(過ち)についても、それを悔い改めねばなりません。
これこそ聖なる、神に喜ばれる「生ける供え物」です。私たちは、しみも傷もない、無垢な子羊のようになる必要があります。私たちは、罪のために犠牲となることはありません。それは十字架上で成し遂げられました。しかし同時に、パウロは「この世の道から自分自身を犠牲として、告白と悔い改めの態度のうちに聖別された聖い生活を送るように」と警告しています。悔い改めは「すみません」と言うこと以上のものです。それは、罪から身をひるがえすことです。たとえ再び失敗したとしても、赦しを求めて神に立ち帰り、聖い生活を送るよう努力することです。そうするとき、神のあわれみと恵みによって私たちの罪は除去され、神の臨在に留るでしょう。これは“業”ではありません。神との交わりにおいて必要不可欠な心の態度であり、神への礼拝の一部です。罪のうわべを飾り、「悪事を善、善事を悪」と呼ぶ世にあって、これは理解しておくべき大切な概念です。今日のクリスチャンの中にも、神は恵み深いお方だから、いくら罪を犯しも、とにかく赦してくださるという間違った態度が見られます。神は恵み深いお方ではありますが、私たちの思いが神に向いているのか、世に向いているのか、心の内を見ておられます。今こそ、ある人々にとっては自己吟味と悔い改めの時かもしれません。
|