主がなしてくださったみ業を心底感謝するためは、犠牲のしくみを理解する必要がありです。サマリヤでこの儀式を目撃した私たちは、無罪の動物が血を流し、死ぬという現実に、強い衝撃を受けました。私たちの罪のために、義なる神が何を要求されているのかを、深く考えさせられる時となりました。さらに、神の子羊なるイエシュアが、人間のために命を捨ててくださるお姿を、見守っているような気がしました。イスラエル人はエルサレムに、サマリヤ人はゲリジム山に、それぞれ犠牲の供え物を連れて行かなければなりませんでしたが、神は究極の供え物(犠牲)を提供してくださいました。全世界の人々が、この供え物を要求されていましたが、主の犠牲によって、私たちがエルサレムに行かなくてもきよめを受ける道を開いてくださったのです。神はそれほど人類を愛してくださいました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハ3:16)。神は何という高価な賜物を、人間にお与えくださったのでしょうか。
◆供え物の制度とは、どのようなものか
供え物とは、礼拝者が所有するある物質(動物、その他)を、神への犠牲として奉げる、宗教的な礼拝行為です。この供え物によって、神との友好関係を回復し、維持するために、一定の方法で奉げられいました。礼拝者の目的は様々です。すなわち、信仰の証明、悔い改めの表明、神を喜ばせその恵みを確保するため等です。供え物は、それを持ってくる人の“心の意図”が極めて重要になります。もしそれが罪のために奉げられるなら、悔い改めが伴わなければ、神はお喜びになりません。感謝の奉げ物も同様です。それが、単なる外見的なものではなく、真の崇拝によるものなら、受け入れられます。
神は、一人ひとりの心をご覧になっています。詩人はこれを簡潔にこう述べています。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16-17)。もちろん、異教徒も同じような理由で、自分たちの神々に犠牲を奉げますが、イスラエルの神に犠牲を奉げる人々と同じ結果を得ることはありません。
供え物の「起源」が議論されています。問題は、人間の生まれながらの宗教的本能から出たものか、神の教えに由来するものなのかということです。 |