BFP編集部 2000年3月
パウロはローマ書の中でこう言っています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:1-2)。
「生きた供え物となる」とは、どういう意味でしょうか。ヘブル語聖書(旧約聖書)に見られる、「犠牲の形」とは、どんなものだったのでしょうか。世の罪をとり除く神の子羊・イエシュア(イエス)は、なぜ「究極の供え物」なのでしょうか。イエシュアの身体が、ただ一度奉げられただけで、どうして私たちはきよめられたものとなったのでしょうか(ヘブル10:10)。ご一緒に調べてみることにしましょう。
◆犠牲の子羊
私たちは生きた供え物となるように召されています。しかし、大部分の人が、実際の「供え物」を見たことがありません。イスラエル人はみなこれを熟知しています。古代のイスラエルでは、毎日犠牲となる生き物を持って祭司の所へ行き、祭壇の上でそれを殺しましました。供え物とはどんなものだったのか、自分の目で見たい好奇心に駆られ、最近私はサマリヤ人の過越の儀式を見に出かけました。
それは、早春のことでした。イスラエルの小高い村(ゲリジム山)は、サマリヤ人だけの領域です。娘のアシュレイと私は、幾人かのブリッジス・フォー・ピースのスタッフと共に、犠牲の供え物が奉げられる過程を目撃しました。2500年以上にもわたり、彼らは忠実にこの儀式を守ってきました(ユダヤ人は、紀元70年の神殿崩壊以来、供え物を奉げることを止めましたが、ゲリジム山で礼拝するサマリヤ人は、現在にいたるまで守り続けています)。
確かにそれは、生きた聖書の再現でした。現場を見渡せる低い屋上で、歴史の断片が生き返るのを見ようと、様々な場所からやってきた人々に混じって、私たちは待機していました。
現在、サマリヤ人は世界にわずか650人しかいません。小さなグループではありますが、20年前より300人ほど増えています。何千年もの間育んできたとおり、過ぎ越しの日の夕方、共同体の全員がゲリジム山に集まってきます。彼らにとって、ここは聖なる山です。この山で、ヨシュアが律法を祝福し、イスラエル人は約束の地に入りました。また彼らは,アブラハムがイサクを奉げようとした山、ヤコブが夢を見た山であると、誤って信じています。神は神殿の場所として、エルサレムのモリヤの山を選ばれましたが、サマリヤ人は、ゲリジム山こそ聖なる山であると信じています。サマリヤの女がイエシュア(イエス)に言ったことを思い出してください。「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」(ヨハネ4:20)。
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