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ローマ書11章13-32節で、パウロは異邦人に、「自分たちはその契約や約束をあらわすオリーブの木に、つぎ木された野生のオリーブの枝である」と教えました。つぎ木された異邦人(野生のオリーブ)が、台木の枝に対して高慢になり誇ってはならないこと、また、思い上がって自分たち異邦人が木を支えているのだと考えないようにと告げました。もと木が、私たちを生かし続ける、いのちの樹液を与てくれるのです。イスラエルの一部は、いっとき盲目にさせられましたが、神は御民とその契約をお忘れになっていません。「イスラエルはみな救われる」日が来ることを、パウロが告げています。また、イスラエルとユダヤ民族に対して、愛と尊敬の態度を持つようにと言っています。彼らは「父たちのゆえに愛された者たち」です。
彼らなしには、聖書もメシヤも救いもありませんでした。ですから、私たちは彼らに神の愛とあわれみを示すべきです。
タラントと同じ章にあるマタイ伝25章31-36節で、イエシュアは、「私の兄弟たちに、食物・水・着物・慰めを与えることは、私にしているのと同じことだ」と語っておられます。事実、これはさばきの日に、諸国家の上に下る神の祝福、あるいはさばきの基準となります。
ユダヤ人は、神の救いを人類に与える管です。しかし、歴史をとおして、人類は彼らに愛もあわれみも示しませんでした。また、祝福する賜物をも、彼らに与えませんでした。私は、聖句の示すところは非常にはっきりしていると思います。神からの賜物を用いてイスラエルを祝福するなら、聖書が教えているとおり、神ご自身がイスラエルの祝福を私たちに与えてくださるのです。これはエルサレムの平安のために祈ることも含んでいます。同時に、これは神が私たちを繁栄させてくださるという約束でもあります(詩篇122:6)。どうしてそれを失うことができましょうか。
主にお捧げしましょう
贈り物をするこの季節に、私たちは神から何をいただいたのか、また、何を御国のご計画のために捧げることができるかを考えましょう。
クリスマスの物語は、贈り物や捧げ物について、素晴らしい教訓を与えてくれます。賢者が遠い東からやって来て、黄金・乳香・没薬という貴重な贈り物を新生児のメシヤに差し出しました。彼らは、ヘロデ王の宮殿に赤子がいることを期待して、初めにそこへ行きましたが、見つけることができませんでした。彼らはその幼な子を、羊飼いの村ベツレヘムに見い出しました。賢者たちは、その方がどなたであるかを知っていたので、赤子を礼拝しました。赤子がどこにいたかには、目も留めませんでした。もしイエシュアが宮殿でお生まれになったなら、彼らの贈り物と賞賛は、宮殿の富裕さとその地位に対するものだったと思われるでしょう。しかし、素朴なベツレヘムでは、ただ神からの超自然的な啓示だけが、最高の贈り物を捧げてメシヤを礼拝しようとする賢者たちを動かしたのです。
私たちがいつもこのような態度を持っていますように。神が私たちに何をしてくださるのかを期待するのではなく、神であられるお方のために、心の内側から主を礼拝し、仕えようとする願いを呼び起こすべきです。賢者には、「神が私たちと共におられる」と呼ばれた方の存在により、家畜小屋が礼拝所になりました。この1年が毎日主の臨在で満たされ、あなたの家が神への礼拝所となりますように。そして、あなたの生活が、主への奉仕に捧げられ、主の御名においてあなたの周りにいる人々の祝福となりますように…。
エルサレムからシャローム |