これらの聖句を読んで、あなたはこう質問するかもしれません。「もし神が欲しいものを全て与えるというなら、どうして私たちの要求が実現しないか。」 神は、“必要としているもの”はすべてお与えになりますが、それが必ずしも私たちが“欲がっているもの”ではありません。時として、自分にとって良いものであっても、神から見れば、最善ではないものを主に求めることがあります。私たちが必要とするものと、自分自身が欲しているものとの間には相違があります。求める前に、これを識別しなければなりません。確かに神は私たちの注文すべてに応えようと準備しておられますが、魔法使いではありません。しかし、その祈りが、贖いを前進させることなら、神の恵みと力は、この祈りに十分応えてくださいます。祈りをとおして、神の奇跡的な力は、多くの人々に御国をもたらしています。
神は必要なものを、決して差し控えるようなことはされません。イエシュアは言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:7-12)。
「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29)。この聖句は、神は文字になった約束を実現されるという意味です。
◆神への応答
一時的興奮のために、賜物が与えられるわけではありません。神は結果を期待してお与えになります。私たちが主に喜びをもたらす方法のひとつは、子どもと同じように、わくわくと興奮しながら、神の贈り物を受けることです。そして、謙遜に、主に栄誉と栄光を帰するよう心掛けながら、賜物を用います。
賜物の価値を高めるためには、自分が祝福を受けるのと同時に、他の人々を祝福するために用いなければなりません。さもなければ、それは役に立ちません。あなたが鳴らすまで、ベルはその役割を十分に発揮できません。同様に、棚の上に置かれ、使われない賜物には、価値がないのです。あなたが誰かに贈り物をしたとします。その時は丁寧な感謝を表してくれたとしても、その後二度とそれを見ることも、それについて話すこともないとしたら、どんなにつらいか良くおわかりだと思います。神の思いもそれと同様です。神は、ご自分が与えた賜物を、私たちが感謝して生活の中で用いることを期待しておられます。
私たちがどんなに祝福されているかを考えてみてください。宇宙の神は、ひとり一人をご存知であり、それぞれのために賜物をお選びになられます。それを心から受け取り、奉仕の生活し、犠牲を捧げて主をあがめるべきです。古代の人々が、罪過あるいは感謝の贈物として、主にさまざまな犠牲(捧げもの)を持って行ったのに対して、現代のクリスチャンは、自分自身の存在を「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として」(ローマ12:1)として捧げるように召されています。
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