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Key For The Bible
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 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15・4-5)

 とどまることは自由に選択できることではありません。なぜなら神の御国のために実を結ぶことを望む者だけが、とどまることのできる場所だからです。イエスの人生は、隠れ場に生きた人生の完全なる模範です。

  ぶどうの実
  ぶどうの実は枝が木にとどまっていてこそ実る

  詩篇の著者は、「全能者の陰に宿る。」(詩篇91・1b)ようにとどまりなさいと言っています。イエスも「人がわたしにとどまり……」(ヨハネ15・5)と、とどまるように言われました。どちらも、とどまる場所は人物であると言っています。イエスがこのことを言われたとき、詩篇91篇が弟子たちの心に思い浮かんだことでしょう。もしイエスが詩篇91篇を引用しておられたのなら、イエスは弟子たちにご自身が全能者であるということを伝えたのではないでしょうか。

  詩篇の著者は、私たちが隠れ場の「下に(陰に)」とどまると言いました。ところがイエスは、私たちが主の「中に(内に)」とどまると言われました。「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(ヨハネ14・20新共同訳)。私は
この聖句を読んだとき、ロシアのバブーシュカ(三角巾のスカーフ)の入れ子の人形を思い浮かべました。その隠れ場とはどのくらい安全な場所なのでしょうか。当然その隠れ場とは、地下室や防空壕ではなく、原子爆弾にも耐え得る政府機関の地下深くにある燃料倉庫、あるいはコンクリートか鋼鉄で幾重にも補強され、要塞化された特殊な部屋に似ているかもしれません。もちろん神がとどまられる場所はさらに安全で、そこには盗み、殺戮、破壊を試みるどのような「盗人」も(自然であれ超自然であれ)決して入ることはできません。(ヨハネ10・10)

  しかし敵は私たちをだまそうとして、そのような安全な場所などないとうそをつきます。敵は狙いを定めて恐怖や不信の矢を投げつけてきます。困難な時代に、私たちは敵の欺きに反撃し、その代わり隠れた避難所で休息を取ることを選択する必要があります。主ご自身の中にこそ、私たちが住む場所があります。単に時おり訪問するだけの場所ではありません。そこに住むには、私たちがその隠れ場を常に意識していなければいけません。私たちは主と共に「天の王座」(エペソ2・6 新共同訳)に定住しています。私たちはみことばを読めば読むほど、神を礼拝し天上のことを黙想します。そして秘かに住む隠れ場に気付けば気付くほど、私たちの人生は、モーセ、ダビデ、エリヤ、パウロ、そして主イエスの人生の内に見られるすべての素晴らしい特性を現していきます。

 私たちは招待されています
 主の前に静まるとき、この特別な場所の存在に気付かされます。そこに神は私たちを招待してくださいます。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46・10口語訳)主はモーセに「わたしのところに上り」(出エジ24・12)と言われました。ソロモンの雅歌で私たちの花婿は言っています。
「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌2・10)。花嫁は答えます。
「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。」(雅歌1・4a)。雅歌のこのみことばは、私たちと共に親密な時間をもつための神の情熱的な愛の願望を描写しています。この隠れ場(秘密の場所)は私たちの住む家、そして実在する場所として、主と共に過ごす静かな時間の流れの中で理解することができます。

 
 
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