「隠れ場」は昼夜問わず、敵の攻撃から逃れる場所であると91篇は語っています。5節、6節の「恐怖」「矢」「疫病」「滅び」は、悪魔のことであると考えられ、91篇には霊的領域の敵も含んでいると思われます。隠れ場がある私たちは、何も恐れる必要がないのです。
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ヤド・バシェム(ホロコースト記念館)
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しかしながら、恐るべき迫害の下に生きたクリスチャンを思うとき、必ずしも神がご自身を信じる人々を危害から守られた訳ではないこ
とが分かります。神の守りについて、この詩篇をどのように理解すればよいのでしょう。
敵から守り解き放ってくださるように叫ぶことを、神はいつも私たちに求めておられます。最終的には、隠れ場とは心の奥深くにある場所のことです。クリスチャンが殉教するとき、その人たちは誰の手も届かない隠れ場にいるのだと私は信じています。多くの場合、私たちは単なる肉体的な守りに注目し過ぎてきました。そこで一見、神の守りがないように思えるとき、信仰がぐらつくことがあります。だからこそ、決して妨害も侵入もされない隠れ場に注目する必要があるのです。
隠れ場とはどのようなものか
聖書には、その隠れ場が何であるかを知っている多くの人物の実例があります。彼らを通して、隠れ場の中で生活するとはどういうことなのか、そして、隠れ場の外で生活するとどうなってしまうのかを、神は教えておられます。
(1) 啓示(隠されていることを明らかに示すこと・驚くべき発見)と親密さの場所
ユダヤの伝承では、「隠れ場」を、シナイ山の頂きで、モーセが入って行った雲と同一視しています(出エジ24・18)。そしてそれは、モーセが詩篇91篇の著者であると考えられているもう一つの理由です。おそらくモーセほど、全能の神との親密な関係を経験した人物はいなかったでしょう。
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| 神は“隠れ場”でモーセに語られた |
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この隠れ場は、神が話され、私たちが聞く場所です。神はモーセに語られました。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、……」(出エジ19・9)。そこは、私たちが神を見、神と交わりをもつ場所です。ある時点で神は、モーセとアロン、その息子ナダブとアビブ、それにイスラエルの長老70人に、山に登っていくように命じました。そこで、「彼らは神を見、しかも飲み食いをした」(出エジ24・11)と書かれてい
ます。
しかしこの後、神はモーセに一人で上って来るように命じられました(12節)。「モーセが山に登ると、雲が山をおおった。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。」(出エジ24・15-18a) |