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新約聖書は一種の速記録として書かれています。当時の読者 たちに理解されている事柄は、ほとんど説明されていません。
例えば、過越の祭りに関しては 少しも説明されず、ただ言及してあるだけです。パウロは言いました。
「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかなパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」(Tコリ5・6-8)
私たちが過越の祭りがどのようなものであるかを知らないなら、この箇所に言及されているすべての事柄を十分理解することはできません。しかし、パウロがこの手紙を書いたときには、過越の祭りに関して説明することは愚かなことだったでしょう。
なぜなら、すべての人は過越に関する事柄をすべて知っていたからです。それはちょうど、私たちがクリスマスはどのようなお祭りなのかを細かく手紙に書き記すのと同じです。
「クリスマスとは、イエスさまのご降誕をお祝いするお祭りです。私たちはクリスマス・キャロルを歌い、家中を飾り付け、ジンジャーの味がするケーキで家をつくり、贈り物を交換し、ろうそくの灯りを灯すのです」と、もし友人に手紙を出すなら、あなたの友人はあなたの頭が変になってしまったのではないかと心配することでしょう。
なぜなら、「クリスマス」と聞いただけで、それらすべてを自動的に思い浮かべることができるからです。
同様に、新約聖書には十分説明されていない事柄がいくつかあります。例えば礼拝のときに賛美することに関しては、ただ一箇所だけしか言及されていません。「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5・18-20)
新約聖書の時代には、信者が賛美を捧げることに、神はもはや関心をもっておられなかったのでしょうか。そんなことは信じられません。ただ単に、それを書き記す必要がないほど、賛美は定着していたからだと思われます。
このように、聖書のもつ文化、及びヘブライ語やギリシャ語の探究を深めれば深めるほど、多くの宝がそこに隠されていることを知るようになるでしょう。
そして、もしできるならイスラエルを訪問し、皆様の聖書が新鮮な意味をもって皆様に迫ってくることをぜひ体験していただきたいと願っています!
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