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◆父なる神をどう思うか?
私自身について言えば、神は無関心で、基本的に私にあまり関心を持っておられない方だと思っていました。私は神を喜ばそうと努力し、正しい行いをしました。しかし、神と親しく話すことはできました。神が私に気付いておられるか。私を喜んでおられるか。また本当に私の声に耳を傾けておられるか。全てが定かではありませんでした。残念ながら、これは私が子どものときに、地上の父親から受けたイメージどおりの姿です。
あなたは父なる神を思うとき、そこに何を見ますか。厳格な裁判官・暴君・弱々しい姿・誰もいない椅子でしょうか。それとも、愛と哀れみ深いお父さんでしょうか。
面白いことに、ほとんどの人がイェシュアは心温かく、友好的で、哀れみ深く、出会うすべての人を愛し、哀れみと癒しと愛に満ちた目をして両手を広げておられる方としてイメージすることができます。しかし、イェシュアを正しく知っている人が、父なる神は、刑罰と稲光りを下そうと待っている厳格な裁判官だと思っているのです。
しかし待ってください。イェシュアは、「わたしと父とは一つです」と言われました。くりかえしイェシュアは「彼を知ることは父なる神を知ることである」と教えておられます。神とイェシュアは異なった性質を持っておられるのでしょうか。
ヨハネ8章19節で「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう」と言われました。また、ヨハネ8章28-29節では、「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」と言われました。
ヨハネ5章16-23節には、イェシュアが安息日に癒しを行い、サドカイ人とパリサイ人に非難された興味深い話しがあります。イェシュアは彼らに言われました。「『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。』」(ヨハネ5:17-20)。
イェシュアは、神だけが持っておられる安息日の権威を持っていることを示されただけでなく、父なる神の御心を反映する神の御子であることを宣言されました。そして、ご自身を神と等しい者とされました。サドカイ人やパリサイ人は、イェシュアと神の同等性を否定しました。
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