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また使徒の働きの書では、ペテロがカイザリヤのコルネリオという異邦人の家に訪れて、すべての者が救われ、聖霊に」満たされた出来事について説明しているのを見ます。(エルサレムのユダヤ人の教会はこの状況を嬉しく思いませんでした!)ペテロは、コルネリオの家で起こったことを報告しました。「そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。私はそのとき、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」(使徒
11:15-17) ペテロは、神の霊がエルサレムのニ階座敷で彼らの同胞に下られたように、異邦人であるコルネリオの家にも下られ、それは神が異邦人が救われることを喜んでおられる確かなしるしであることを思い起こさせています。力強い風が吹き抜けたのでしょうか?それは私たちにはわかりません。しかし確かにその日、神の霊によって異邦人に新しい命が来ました。
これらすべての例によって、私たちは神の息が命をもたらすことを知ります。命を造り、命を吹き込み、それを維持する力を持つのは神のラッカまたは神の霊なのです。
◆神の息は破壊をもたらす
神の火や神の水と同じように、神の息も逆説的??です。それは、神の道を選ぶ者に祝福と命をもたらします。しかし、また神とその道を拒否する者には破壊をもたらします。悪は神の前にたつことが出来ないので、神の霊は世の悪や罪を焼き尽くします。神の霊は、私たちの生活に2つの方法で働くことが出来ます。私たちの心の状態次第で、それは良い影響をもたらすことも、悪い影響をもたらすことも出来るのです。
ヨブ記は、この点をとても良く現わしています。エリファズは言います。「私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。」(ヨブ
4:8-9)
そしてエリファズは、自分の強さに寄り頼む、富を持ち高慢な人々について言います。「彼らはやみからのがれることができず、炎がその若枝を枯らし、神の御口の息によって彼は追い払われる。」(ヨブ記
15:30)
詩篇の記者は、神を彼らの岩、とりで、救う者として見いだす者のための、神の個人的な守りについて語っています。御名を呼ぶ者のために、天からうなり、私たちの敵を滅ぼします。私たちは、震える地、神の火を見、神が天を分かち、私たちの敵を追い散らすために矢を放たれるのを見ます。「こうして、水の底が現われ、地の基があらわにされた。主よ。あなたのとがめ、あなたの鼻の荒いいぶきで。」(詩篇18:15)
預言者イザヤは、30章で、神に敵対し、神を敬わない人々のうえに下る神の裁きについて、雄弁に語っています。その章の終わりに、イザヤは、子供たちがモレクの神に犠牲として捧げられていた、エルサレムの外にあるトフェテのアッシリヤの王の上に下される、神の息によって起こされる神の激しい裁きについて語っています。裁きによって、神はそれを全く滅ぼされるのです。「すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは、深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす。」(イザヤ
30:33)火と神の息によってくる主の裁きにおける関係に注意して下さい。それらは共に、罪と反抗を滅ぼし尽くす神の霊の象徴なのです。
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