これはルカ伝2章14節に記録された、みつかいたちの歌の中にも見られます。「いと高きところに、栄光が、神にあるように。地の上に、シャローム(平和)が、御心にかなう人々にあるように。」 有名な詩篇122篇6節の「エルサレムのシャローム(平和)のために祈れ」と言う節も、もしシャロームがもっとよく理解されていたら、「平和」より「救い」と訳されたことでしょう。この箇所を考慮するとき、シャロームは救いと同時に、霊的な解放と肉体的健やかさをも含んでいることを心にとめておかなければなりません。ヘブル語は、他の言葉のように、整然と物事を分類することをしませんでした。
新約聖書をつうじて、直接主の働きうけた人、あるいは霊的救いをとおしてイエシュアと関わりのある人物は、ありとあらゆる“シャローム”を表現しました。シャロームを期待し(ルカ1:79、2:29)、みつかいがそれを告げ(ルカ2:14)、いやされた人々はシャローム(平安)のうちに行き(マルコ5:34、ルカ7:50)、メシヤ-イエシュアがエルサレム入城するとき、人々はそれを歌いました(ルカ19:38)。また、イエシュアはエルサレムのために泣きました。人々は主の来臨がシャローム(救い)を意味することを知らず、それを見逃しました(ルカ19:42)。イエシュアは死なれる前に、弟子たちにシャロームを残し(ヨハ14:27、16:3)、復活の日、「弟子たちの中に立って言われました。シャローム(平安)があながたにあるように!」(ヨハネ20:19-20)。事実、主はこの句を三度、おっしゃいました(ヨハネ20:21、26)。新約聖書のさまざまな指導者が、「イエシュアによる、良い知らせ(使徒10:36)」を、「シャロームについての宣教(エペソ2:17)」、また「シャローム(平和)の福音(エペソ6:15、ローマ10:15)」として語りました。“シャロームの神”が、全人格−体・心・霊(第1テサロニケ5:23?に対する救いとして宣言されました。メシヤが完成された買い戻しの御業をとおして、神のシャロームが人に与えられていることが、しばしば新約聖書に記されています。
ご覧のとおり、シャロームはまことに柔軟な言葉であり、単なる平和(闘争、無秩序からの解放、調和、平穏であること)より、はるかに多く意味を持っています。シャロームの意味は、友好、すこやか、安全、救いを含め、ヘブル語(SH-L-M)の語根「完全」を、さまざまな面ではっきりと反映させています。
◆日常生活におけるシャローム
今日の世俗的な西洋文明は、ギリシャ由来の平和概念を持っています。それは精神面から生み出される個人的平和であって、神からの影響はありません。
しかし、ヘブル語聖書(旧約聖書)の著者たちは、全く逆のことを考えていました。彼らは、神の支配や臨在なくして、物事が起こることはないと考えました。神は、生きる上で完全な成功を与えてくださいますが、罪がそれを台無しにしてしまいました。神は平和なる地球の創始者であり、人間のあらゆる問題を超え、人生にシャロームの保証と実現を反映させ、完全さとしてあらわれると信じられていました(グレゴリー1976)。この概念は、主の祈りのうちに見られます。「天にましますわれらの父よ。願わくは御名を崇めさせ給え。御国を来らせたまえ。御心の天になるごとく、地にもならせたまえ。」(マタイ6:9-10)。さらにシャロームは、しばしば物質面の繁栄を記述するために用いられました。それは、神の契約や、神の臨在の現れに結びついています。
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