友情:友人間のシャロームは、信頼(エレミヤ38:22)、親しさ(エレミヤ20:10)、平和な理解(ゼカリヤ6:13)を表し、ここでは「平和」に、「友人」という言葉が前置されています。詩篇28篇3節では、「平和を語りながら、その心に悪がある人々」について、詩篇41篇9節では、「シャローム(平和)の人」について語っています。両方の聖句とも友好と裏切りを対照させていますが、これは戦争と平和のことではありません。同じように、第一列王記2章13節で、バテ・シェバがアドニヤに「シャロームなことで来たのですか」と尋ねていますが、彼女は、平和のために来たのかを聞きたかったのではなく、友好的な意図できたのかを聞きたかったのです。彼は「シャローム」と答えましたが、それは嘘でした。争いではありませんでしたが、友好的な意図はなく、心に裏切りを持ってきました。また、イエシュア(イエス)が「シャローム(平和)の子」と表現されたのは(ルカ10:6)、平和愛好家についてではなく、親切な友好的人物についてでした。
すこやかさ:シャロームは、健康と繁栄を含む完全な幸福を表しています。これは神からの賜物です。これを第2列王記4章26節にみいだします。エリシャの僕が、シュネムの婦人に、「あなたをはじめ、夫や子どもはすこやかですか」と尋ねました。原典では、「あなたはシャロームがありますか」という質問でした。今日のイスラエルでは、友人に元気かと尋ねるとき、「シャロームですか」と聞きます。また、もし誰かにあなたの心遣いを伝えたいのなら、「あの人にシャロームか聞いてくれ」と言います。詩篇の詩人が「私の肉には完全なところがなく…私の骨には健全(シャローム)なところがありません」と言うとき、彼は明らかに健康面に触れています(詩篇38:3)。この章句に使われているシャロームは、「平和」ではなく、「健康」と訳されます。
安全:士誌記11章31節で、エフタは悲劇的な誓いを立ててこう言いました。「もし戦争からシャローム(安全)のうちに戻って来たら、自分の家から出てきた最初の生き物を主にささげる。」 ここでのシャロームは、イザヤ書41章3節の「彼は彼らを追い…シャローム(安全)に通って行く」という言葉と同じ意味で用いられています。イエシュアもルカ伝11章21節で、このシャロームを同じ方法でお使いになりました。「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物はシャローム(安全)です。」 イザヤは、シャローム(安全)をもたらす義なる生き方と、平穏の間には、結びつきがあると言っています。「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。義は平和をつくりだし、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な憩いの場にすむ。」(イザヤ32:17-18)。
救い:シャロームは、イザヤ書60章17節のツェダカー(義)や、イザヤ書52章7節のイエシュア(助け)と言った救いを示す語と平行して用いられています。イザヤ書52章は、字義的には「平和」と「助け」を意味します。救いと同意語として書かれていることに、付加的意義を受け取ります。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」
使徒パウロは、イザヤ書57書19節に書かれている「シャローム、シャローム」は、平和だけでなく、救いに言及すると理解しました。エペソ書2章13-18節におけるパウロの説明は、救い主イエシュアについて、「彼御自身が私たちのシャローム(救い)である」と語っています。「彼はユダヤ人と異邦人をひとつにし(14-15節)、平和を宣べ伝えるために来られた…なぜなら彼をとおして、私たちはひとつの御霊によって父に近づくからです。」(17-18節)
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