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水と神の主権:聖書における水のイメージは、聖句の中で最も効果的に神の主権を明らかにするもののひとつです。
創世記1章にはこうあります。「…神の霊は水の上を動いていた」(2節)。それから、神は、地を形つくるために(6節)、水と空を分け(10節)、すべての植物・被造物・最後に人間を…と、驚くべき創造のみわざを開始されました。
神は御手をもって海を汲み出されました(詩95:5)。神はイスラエルの子らのために、紅海やヨルダン川を分けられました。荒野の岩から水を溢れ出し、雨を控えたり、あるいは注ぐことによって、裁きや祝福をあらわされました。嵐を荒れ狂わせ、また海を静められました。イエシュアは創造物の上に御力をしめし、水の上さえも歩かれました。
水のように慕い求められるべき神:荒野にいる鹿を思い描いてください。多くのカモ鹿がユダヤの樹木のない丘を放浪しています。暑い日、水のない岩の多いユダヤの丘を横切り、エンゲディの冷たい泉にたどり着くことを想像してみてください。このような絵画を心に描くとき、“主の御前にいたい”と願う詩人の激しい願いをより深く理解することができます。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか」(詩42:1-2)。私たちにも主に会うための、そのような激しい願いがあるでしょうか。もし飲み水がなければ死んでしまうように、神を渇望しているでしょうか。
エレミヤは、彼の預言を好まなかった不忠実な国民によって、空の貯水槽に閉じ込められました。しかし、彼は大抵の人が見逃している神の祝福のイメージとして、水を用いました。「私の民は二つの悪を行った。湧水の泉である私を捨て、多くの水貯めを水を貯めることのできない、壊れた水貯めを自分たちの為に掘ったのだ」(エレミヤ2:13)。考えてみてください。神はご自身をいつも枯れることのない、いのちを与える湧水と言っておられます。しかし、神の民は湧水であられる神を無視しました。そして貯水槽を掘り、日々神に寄り頼む代わりに、自分の力でいのちを保持しようと努力しました。しかし、彼らの貯水槽は壊れて無用なものとなってしまいました。私たちは土の器であり、日毎に生きた水が必要です。神を十分に「貯えておく」ことはできません。絶えず神の水(聖霊)の補充を必要とする「こわれた容器」です。自分のまわりにいる他の人々を潤すためには、特に補充が必要です。「私の杯は溢れています」とは、大いなる喜びを示すヘブル的表現です。私たちがいつも満たされていなければ、「あふれ」て他の人々を祝福することはできません。神こそ源です。ですから、成すべきことは、ただ自分自身が「湧水の泉」から飲むことだけです。
◆これは私たちにとって何を意味するか
聖書を文明・土地・霊的用法の中で理解するなら、著者のイメージに対する、より大きな洞察を得ることでしょう。それらは神が彼らに与えて記録させたことばです。神は最大限そのことばを理解するよう願っておられます。「水」の場合、ただバプテスマという意味だけではありません。日々にわたる神の祝福の水に出会います。飲んだり・入浴したり・泳いだり・あるいはただ雨を眺めたり…といったように、一日たりとも水があなたの生活の一部とならずに過ぎることはありません。
このメッセージを一読し、再読して、水に出会うたびに、神が日々豊かに注ぎ出したいと願っておられる、いのちと祝福を考慮してください。それを受け取るのは、私たちの側のことです。それは神の新しいいのちを約束し、私たちの中にいのちをもたらすことでしょう。
エルサレムからシャローム |