エジプトの束縛から解放され、紅海の岸辺まで来たへブル人を、神の臨在が火と雲の柱をもって導いたことを、出エジプト記に見ます(出13:17-14:29)。神は背後にパロの軍隊の馬のひずめの音が聞こえるまで、彼らそこに留め置かれました。神は彼らを殺すために、荒野に連れ出したのでしょうか。神は一体何を考えておられたのでしょう。その時、モーセが海に向かって手を振り上げると、海は分かれました。イスラエルの子らは、エジプト軍が閉じた海に溺れていくのを尻目に、乾いた地の上を渡って行きました。これによって、神はパロとエジプトに最終的な裁きをくだし、イスラエルの子らには、偉大なるおそるべき力を示されました。
紅海を渡ったことは、イスラエルにとって、ミクヴァ(バプテスマ)の予型だったと、ラビは示唆しています。
彼らは一民族として入り、一国民として出てきました。これは信仰のテストであり、彼らの召命を成就するための聖別でした。彼らは約束の地に入る準備がありました。しかし、民は神を信じず、かえって10人のスパイを信じ、40年間荒野をさまよいました。それから新しい指導者・ヨシュアと共に、再び約束の地の境・ヨルダン川のエリコ対岸までやってきました(ヨシュア3)。このとき、神は彼らに土地・祝福・大勝利を約束されました。しかし、約束を獲得するためには、川を超えねばならず、そのとき川は溢れていました(15節)。岸辺は険しく深みへ直下降しており、溢れる水は急流となっていました。祭司たちが箱を担い、民の前を進むように命じられました。あなたがその祭司のひとりだったと想像してみてください。荒野を40年放浪し、いつ泳ぎを覚えたでしょう。もし、彼らが転んで溺れたらどうなりますか。神は彼らに何を要求しておられたのでしょう。確かに、誰ひとりとして最前列にいたくはなかったと思います。少しずつ水の中に入って行くわけではなかったからです。それは“オール
オア ナッシング(100か0か)”の全き託身でした。信仰によって、その仕事が成されねばなりませんでした。神は真実であるご自身を、民に供給しました。「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、…ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった」(ヨシュア3:15−17)。
主の祝福に入る前に、民は障害に直面しながら、その信仰を証明し・道を造り・備えを成してくださる主を信頼しました。同じことを私たち自身の生活の中にも見ます。神がくださった幻を成就するためには、しばしば洪水の中をとおり抜ける信仰が必要になります。これを実行する者は、忠実に道を造ってくださる主が、決して失敗させません。しかし、頭で理解することでは、それが起こることにつながりません。土手の端を離れて、溢れる大水の中に入って行かねばなりません。しかし、それをするなら、次のテストのために、信仰を建てあげる栄光をもたらすことでしょう。
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