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 聖書全体をとおして、人の足を洗うという行為は、時代を経た習慣であることがわかります。この習慣は、創世記18章において、3人の人がマムレでアブラハムを訪れたときにまず書かれています。アブラハムは彼らに言いました。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたの足を洗い、この木の下でおやすみください」(3-4節)。イエシュアは、ルカ伝でパリサイ人から非難を受けました。罪ある女に涙で足を洗わせ、香油を塗らせたからです。

 イエシュアは、彼女の必要が大きかったこと、また、彼女が赦しを求めて、その行動で自分の愛を示したことを指摘しました。それから自己義認のそのパリサイ人に言われました。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません』」(ルカ7:44-47)。

 イエシュアが弟子たちと共に過ごした過ぎ越し・最後の晩餐のとき(ヨハネ13)、主はたらいに水を汲み、弟子たちの足を洗いはじめました。これこそ、主が彼らに示された真の僕たる模範です。足は聖書や中東文明では、身体の最も低い部分とみなされています。今日あなたがベドウィン族を訪れるなら、彼らのテントに座り、客人用のお茶かコーヒーを飲むことになります。ここでは、必ずあぐらをかいて座らなければんりません。足をまっすぐ伸ばし、その裏を見せるようなことがあってはいけません。それは極端な無作法とみなされています。ですから、誰かの足を洗うということは、まことに謙遜な行為なのです。

 イエシュアは私たちのみんなのしもべとなることを欲し、弟子たちの足を洗ったあとでこう言われました。「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです」(13-17節)。

 一杯の水を与えることは、友好の誓いでした。アブラハムのしもべ・エリエゼルは、一杯の水によって、歓迎されているかどうかを知ろうとしました(創世記24:17-18)。イエシュアの名によって与えられた一杯の水は、祝福とみなされます。こうあるとおりです。「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです」(マルコ9:41)。

 
 
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