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エルサレムに関する、世の諸国における論争について、すでに述べました(イザヤ34)。預言者ヨエルもそのテーマを取り上げ言っています。「わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。彼らはわたしの民をくじ引きにし、子どもを遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ。」(ヨエル3:2-3)。
神は諸国民がこの地と民を軽んじ、蔑してきたそのやり方に怒っておられます。神はその地を分割し、「目のひとみ」と呼ばれるユダヤ民族を虐待したことを怒っておられます。
マタイ25章には、主が戻られたときの諸国民に対する神のさばきが記述されています。「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」(マタイ25:31-33)
それからマタイは更に筆を進め、右手の羊の国々が「神の永遠の御国」において祝福され、左手のやぎの国々が「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火」に送られる情景を描いています。この相違は何でしょうか。基準は、彼らがいかに主の兄弟たちである、小さい者たちイスラエルとユダヤ民族を取り扱ったかにもとづきます。
彼らが飢えていたとき食べさせ、彼らが渇いていたとき飲ませ、彼らが裸だったときに着物を着せ、牢獄にいるとき彼らを訪ねたでしょうか。私たちはどうでしょう。私たちも神の側に立ち、祝福されることができます。(ブッリッジス・フォー・ピースの救出作戦やエズラプロジェクトは、イエシュアの「兄弟たちの小さい者」を助けるひとつのすぐれた道です)。
◆私たちにとって、これは何を意味するか
この記事の中で引照した聖句のほとんどは、イスラエルに関する神のプログラムに沿わず、失敗した諸国民の上にくだされるさばきを示してい ます。神のプログラムは真の平和に抵触するものでもなければ、パレスチナ人やこの世のその他の誰をも傷つけるものではありません。神の計画が十分に実現するとき、それは世界全体の平和を意味します。それこそ、私たちが神の平和計画にかかわりをもつ重要性です。
エルサレムは、昔も今も世に対する祝福とさばきが物理的な形であらわされる、まことに大切な都市です。どんなときにも、エルサレムを神が定められた都と考え、祝福を求め、平和のために祈り、神を重んじ、その民を重んじる人々に対する祝福が必ずあります。国連やアメリカ、EEC、Oslo、Wyeなど、人間が考え出した計画ではなく、神の計画を理解し、支持するよう他の人々を励ます必要があります。神は神殿の地帯、オリーブ山を含む旧エルサレムに、いかなる計画にも組みして、それを回教世界に与えることをされません。メシヤはアルグスと呼ばれるモスラムの都に戻って来られるのではなく、回復されたエルサレムというユダヤ人の都に戻って来られるのです。
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