2:エルサレムは人々に神の律法を思い起させる。
第二次世界大戦後、社会のしきたりは崩壊を始め、すべての人が「自分自身」のことだけを考えるようになりました。今や反逆が社会を支配し、型破りや異常が「解放されている形」としてたたえられています。もし「いいと感じるならすればよい」と、何でも自分の目に正しいことをしています。かつての社会で讃えられていた聖書のしきたりは、今や時代遅れ、流行遅れとしてあざけられています。
今日、盲人となった人々は、感情によって行動しています。まことに盲人が盲人を導いているのです。これに反して、神の民は目を開き、みことばと律法にもとづく信仰によって歩まねばなりません。横行する不法は、律法やみことばの説かれる場所に生き残ることはできません。それこそ世界のメディアが、聖書的な価値感や律法に反対する理由です。世俗的なヒューマニストは、勝手気ままな生活様式を疑問視する聖書的価値観など聞きたがりません。彼らは悪いものを、善いものと呼びながら、神のことばに立つ人々をあざけり、彼らを悪者と呼びます。そしてみことばの外側に生き、みことばに反抗しています。興味深いことに、彼らはシオンに再び神の統治が樹立されるのを望まないグループでもあります。
教会でさえ、不法に対して弱腰になり妥協しています。多くの者が「感情」に道をゆずり、神のことばにはっきり反する世的な実践の多くのことさえ、とり入れはじめています。ある者は教会を背教の中へと捨て去りました。第二テサロニケ2章3節では、これを、メシヤが来られるしるしとして述べています。「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教のことが起こるまでは、主の日は来ないからです。」
「食べ・飲み・楽しめ」の精神と生活様式が、教会の中にも横行しています。第二テサロニケ5章3節は、この愚者の楽園に盲るなと警告しています。それは長続きしません。「人々が平和だ。安全だ。と言っているそのようなとき、突如として滅びが襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨ようなもので、それをのがれることは決してできません。」
エゼキエル13章には、自分たちのいつわりの教えをよいものと呼び、実際には平和がないにもかかわらず、「平和だ、平和だ」と言って、神の民をあらぬ方向へ導く偽預言者があらわれると書かれています。そして、これらの指導者たちに対する神のことばも記録されています。石の上に家を建てる代わりに、彼らは砂の土台の上に家を建てています。彼らは石膏で家を固めつつありますが、神はこれらの構築物を雨と風をもって溶かし去るでしょう。それらは、嵐がやってくると耐えられません。
神に抗し、反逆的な人々に神は言われます。「ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町。呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない」(ゼパニヤ3:1ー2)。この箇所には反逆的な行動が記されています。それから神は彼らをみなさばくと言っています。「…わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける」(ゼパニヤ3:21)。
私たちは神の警告を心に留め、この世の道、偽預言者、また「もし善いと感じるなら、それをしなさい」という、現代の嘘に導かれないようにしましょう。神の側に生きることは訓練を要します。世はしばしば神から私たちを引き離しそうとします。多くの世的なもののために、それに抵抗するのは容易なことではありません。困難ではありますが、弱いときこそ神は私たちを強くしてくださるのです。聖書は神の手引書です。この書を無視することは破綻のもとです。聖書を基準としなければ、何事も判断することの許されない時代にあって、真理の側につく必要があります。
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