神の御心を追い求め、主を尊敬したゆえに、完全な人格ではなかったにもかかわらず、栄誉が与えられた人物の実例を、ダビデの中に見ます。逆に、ソロモンは地上で最も賢明な人でしたが、大勢の異教徒の妻によって主を尊敬することから離れていきました。結果、神は王国を取り上げると仰せになり、それが実現しました(第1列王記11:9-13)。ソロモンの生存中それをなさらなかった唯一の理由は、「あなたの父、ダビデに免じて」(12節)でした。
「どのような関係を持っているか」ということに、神は注意を払われますから、人格が不充分でもある意味で安心していて良のです。神は私たちとの関係を軽々しくは扱うことをなさいません。
申命記28章には、一連の恐ろしい恐怖のできごとが書かれています。民が主を尊敬しないなら、これらが実現することになっていました。そして、この多くがイスラエルに起こってしまいました。
旧約の神だけが正義の怒りを示されると考えないでください。ヘブル書10章26-31節には、同様に恐怖を感じる一節があります。そこには神を嘲笑し、背を向ける人々が、どう裁かれるかが書かれており、このように締めくくられています。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(口語・新改・新共同:恐ろしい/文語:畏る)
だからこそ、パウロはピリピ人にこのように語りました。「恐れおののいて自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)(口語・新改・新共同:恐れおののき/フランシスコ:畏れおののき/文語:畏れ戦き)。ここで使われているギリシャ語は、「怖がって恐れる」という意味です。ここでパウロは、主との関係に言及するのではなく、「神のプログラム」に到達し、のらりくらりするのを止めるように動機づけようと、自発的感情について述べています。
◆神の憐れみは永遠に絶えることがない
激しい怒りの下におかれることは、神のご計画ではありません。憐れみと情けとご臨在を感じて、み翼の下、神の愛の中に安らぐことがご計画です。
誰も最初から正しく行動することはできません。もし悔い改めの心を持って主の元に行くなら、主は私たちを引き上げ、磨きをかけ、軌道に戻してくださることをダビデは証明した。
神は私たちとの関係において、祝福を与えたいと強く願っておられます。もしどのように主を畏れ・恐れるかがわからないなら、それを教えるとおっしゃいました。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。」(詩篇34:11)(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ/フランシスコ:おそるべき/文語:畏れ)。
もし主に向かう姿勢が本当に真剣なものであるなら、それを失うことはありません。私たちは主のうちに、誠実な親を持っているのです。主は人間を正しくするために、喜んで助けてくださるお方です。
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