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Key For The Bible
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 救いの完成を信仰によって達成する動機は、「神を畏れ・恐れる」ことです。すなわち、尊敬すること・深遠な憧憬的畏れを伴った尊敬・敬意・崇敬・献身的愛を与えることです。もし本当に主を「尊敬してうやうやしく恐れる」なら、人生において、尊敬と愛を神に示したいと思うことでしょう。

 この概念を心深くきざみ込み、神との関係をバランス取れたものにしてと願います。あまりにも多くのクリスチャンが、自分はあがなわれているので、主を恐れる必要はないという考えを持っています。もちろん主を怖がったり、恐怖に思うことはありません。しかし、崇拝の畏敬の念で神と接する必要があるのです。現代の礼拝では、時にそれが失われています。これは元通りに正される必要があります。詩篇19篇9節にこうあります。「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない…」(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ/文語:かしこみおそるる)。終わり無く永遠に、主への恐れはきよいのです。新約聖書において、この概念が無視されたのではありません。確認されたのであって、今日の私たちも従うべきことです。

 主のご臨在の前に出たとき、モーセは靴を脱ぎました。天皇陛下の前で、私たちはどう振る舞うでしょうか。天皇陛下より遙かに、遙かに高い尊敬と畏敬の念で、王の王、主の主に接しなければなりません。神は私たちにたくさんのことを成してくださったのですから、これは当然のことです。長老派教会で育った日々を思い出します。私は子どもでしたが、祭壇の前の通路立ち止まり、主に尊敬の念を込めて礼をせずにとおり過ぎることはありませんでした。これは単なる「宗教的」なことだと思う人もいるでしょうが、若い命に神への畏敬の念を刻み込むために、この行為は深い影響を与えました。

  モーセのように、日常生活において大きな尊敬を払うべきです。そうするなら、神のご臨在に対して、自然に靴を脱ぐようになるでしょう。裸足では生活できませんが、このような精神を持ち、時には実際に行動することによって、もっとうやうやしくなれるのではないでしょうか。

  ペテロは言います。「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなメシアの、尊い血によったのです」(第1ペテロ1:17-19)(口語:おそれ/新改:恐れかしこんで/新共同:畏れ/フランシスコ:畏れ敬い/文語:畏)。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、メシアが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。これが、畏敬の念を起こさせます。

  神は人間を祝福したいと願っておられます。しかし、祝福を受けるために、神を自分の「気軽な相棒」のように取り扱うのは、関係が安易なものになり、傲慢になりますから良くありません。主からあまりにも多くのものを受け取ったのですから、なおさらその関係を大切し、己の規約に従うのではなく、主の規約に従って生きるべきです。

 
 
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