レビ記には、会見の幕屋から打ち出される神の臨在・火についての驚くべき物語があります。それを見たある人々は祝福されて礼拝をし、他の人々は死にました。
レビ記9章23〜24節では、モーセとアロンが会見の幕屋から出て来たとき、主の前から火がでて、祭壇のいけにえを焼き尽くしました。それを見た人々は、喜びの叫び声をあげ、主の御前に顔を伏せました。
しかし10章では、アロンの二人の息子・ナダブとアビブが香炉をとり、神の命令に背き、主の前に赦されない火を捧げました。このとき多くの人々を祝福した同じ火が、主の御前から出て、ナダブとアビブを焼き尽くしました。全員が大変なショックを受けたことは、想像に難くありません。彼らはアロンの子ども、大祭司の息子たちでした!
これをどう説明しますか。この事件後、主がモーセとアロンに語られた言葉の中に、答えを見出すことができます。「……『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』……」(レビ10:3)。
青年たちが神を怒らせたことについては、多くの想像がなされています。文脈に最も合致するのは、アロンの子らはあまりにも神の臨在になじみ過ぎ、無頓着になっていたのではないかという説明です。民にとって、それは必ずしも大罪ではありませんでしたから、皆尚さら驚いたのです。しかし、神を軽んじることは、大きな罪です。アロンの子らは、民の前に神の力と臨在を示す“実例”となってしました。
同じ神の火が、全く異なる影響を与えました。畏れと尊敬をもって神の火を見た人々にとって、それは力と祝福となり、「ホホー、前にもこんなことがあったなぁ」式の態度をとっていたナダブとアビブは、その火によって滅亡しました。
同じようにアナニヤとサッピラに下された、直接的神のさばきを使徒の働きに見ることができます(使徒5:1-16)。彼らは主の前に死にました。火は現れませんでしたが、神に対する彼らの大柄な態度は、瞬間的破滅を綴りました。
これらの実例は、神の臨在の前にどう行動するべきか、立ち止まって考えさせるものです。私たちは教会の中で眠りこけているのでしょうか。それとも、神の臨在の中にとどまり、主から受けるものに、十分な期待を寄せつつ礼拝に入っているでしょうか。主との個人的な静思のとき、祈りのときについてはどうでしょうか。神の臨在を、決して当然のものと受け止めてはいけません。 神の火は、彼の敵を焼き尽くす。詩篇において、神の口から火が出て、敵を焼き尽くしたのを見ます。ダビデは書きました。「ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。………私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。………すると、地はゆるぎ、動いた。また、山々の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。
煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった」(詩篇18:3、6-8)。
これは絵画的な描写ですが、神がその敵に怒られたときには、時として文字どおりのことが起きました。
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