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BFP編集部 1999年3月

聖書において、私たちは様々な神のご性質を見出します。静かな小さな神の声・神の息・神の愛・神の御手などです。今回は、神のご性質の一つである「火」について、一緒に学んでみましょう。この火は、「祝福」あるいは「破滅」のいずれかをもたらす、一種独特な性質を持っています。
神はご自身を「焼き尽くす火」と言われました(申命記4:24、9:3)。悪は神の御前に立つことができません。この世にある悪と罪とを焼き尽くすのは“火”です。神はその聖なる火の中に臨在され、二つの道から私たちの生活に働かれます。私たちの心の状態によって、それは良い影響も、悪い影響をももたらすことができるのです。心の正しい人々は、人生の中の不純物と罪とを焼き尽し、聖化する神の力を受け取ります。不正な心を持ち、主に反逆している人々は、同じ火によって焼き滅ぼされるのです。
◆聖化の火
神の御前には、聖さがあります。聖書の多くの記述において、神はご自身を聖い火として示されました。この火こそ神の臨在の確証です。しかし、神の臨在の中にいるためには、聖別された生活が要求されます。
それが最初に見られるのは、出エジプト記で、燃える芝の中からモーセに語られた個所です。「すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
モーセは言った。『なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。』
主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります。』と答えた。
神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』
また仰せられた。『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」(出エジプト記3:2-6)。
モーセがシナイ山に登ったとき、壮大な光景が展開され、全ての人々が恐れに包まれました。「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。」(出エジプト記19:18)。山の周辺では、地が揺れ・雷鳴が鳴り・稲妻が光り・全員が恐るべき神のご臨在を目撃しました。神は人々が山に近づかないようにと、モーセに告げました。聖別されていない彼らが、死ぬことがないためです。
イスラエルの子らがシナイの荒野を移動したとき、昼は雲の柱、夜は火の柱の中に臨在される、主に導かれました。「そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。
主はモーセに仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た』」(出エジプト記20:21-22)。荒野を放浪するさなか、主が見えるかたちで臨在されるとは、何という慰めでしょう。昼も夜も、民はただ幕屋のはためきを眺め、神の臨在を見て、主が守っておられるのを知ったのです。
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