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しかし、訓練と指導には、従うことが要請されます。人は罪をおかす性質を持って生まれているので、幼い子どもでさえ、指導によって強めてやらなければ、神の道から迷い出てしまいます。天の父として、神は私たち全員を訓練されます。「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる」(箴言3:12)。そして、そのように私たちが子どもを愛し、正しく訓練することを、望んでおられます。
聖書によって正しく訓練を受けた子どもたちは、善悪を知るようになります。訓練を受けないと、不安で気ままになり、どうすれば成熟した大人に育つことができるのかわかりません。誰でもこのようなたぐいの子どもや大人に、遭遇していると思います。
だからと言って、肉体的にも精神的にも、「訓練」が子どもを虐待する言い訳にはなりません。エペソ書6章4節はこう勧告しています。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」 コロサイ3章21節では、更にもう一歩突っ込んでいます。「父たちよ。子どもを苦々しい思いにさせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」 このように訓練とは、単に叩くことより遙かに深い意味があり、また言葉で虐待することでもありません。神の道に生きるように、人生の方向付けを与える養育を含めた包括的なプログラムが訓練です。
ヘブル書12章1-12節では、神の訓練という課題全体を取り扱っています。まず、父たちから日常受ける訓練に焦点が当たっています。同様に、主から訓練を受ける必要があるのは、「私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとしてなのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:10b-12)
旧約聖書では、子どもを訓練することは真剣な事項でした。申命記21章18-21節は、不従順で反抗的な息子に対する罰を、一つ一つ明確に説明しています。町の門に連れて来られ、人々によって石投げの罰を受けて殺されるのです。地上の両親に対して、子どもたちが従順であることが、それほど重要であると神が思っておられるなら、天の父に従順であることは、更に更に遙かに、どんなに大切なことでしょうか?
養育:子どもたちへの訓練には、愛育と養育が伴っています。養育抜きで、訓練ばかり行われると、均衡のとれない子どもを作りだし、この子は長じても均衡のとれない大人へと成長します。同様に悪いのは、養育ばかりで訓練をしないことです。私たちは均衡を保たなければなりません。神が愛と慈しみを示しす表現をされるとき、養育する親にご自身をなぞらえておられます。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」(イザヤ書66:1)
神はまた地上の親たちよりも、もっと良い贈り物を、私たちに与えたいという望みを述べておられるます。「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:11-13)
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