外観だけでは、その人の全体を知ることはできません。旧約時代のへブル人の文学は、それをこんなふうに言い表しています。「姿形が美しいからといって、人を誉めそやすな。また、外観によって人を毛嫌いするな」(ユダヤ教:シラ書11:2)。言いかえれば、善であれ悪であれ、正当な評価をしたいなら、単に外側だけでなく、その人の内にあるものを見ることに、より多くの時間をかける必要があります。
神は、「外側がどう見えるか、何を着ているか、どれだけ美しいか、どれだけお金を持っているか、どれだけ重要な職についているか、あるいはどこに住んでいるか」により、人物評価をする傾向が人間にあるのを知っておられます。私たちはみな内側を見抜く代わりに、ただ外側を見ることで、その人と知り合いになる価値をはかり、“時間をとる値打ちはない”などと判断してきました。
イスラエルでは、何百、何千もの旧ソ連からの新移民者が、この点を例証しています。医師・技師・その他多くの専門職の人々が、家族の食物を買うために、わずかなお金を得ようと道路清掃人をし、道に立って歌を歌ったりしているのを見かけます。教養のある人は、たいていこれらの人々の人生における立場を、「自分たち以下」と判断するでしょう。しかし、実際は私たちよりも遥かに高い教育を受け、教養があるかもしれないのです。人々に最も人気のある人たちについて考えてみましょう。彼らはしばしば最高のスポーツ選手・最も美しい少女・快適な車と素敵な身のこなしの大金持ちだったりします。この基準は歴史をとおしてずっとそうでしたし、自慢の愛車が自慢の馬車であった日にまでさかのぼります!
しかし、これらの人々の内側はどうでしょうか。外側のように内側も美しいのでしょうか。この世からアイドル視されている、スポーツや映画、音楽スターの多くは、人間関係に壊れ、ある者は多量の薬や「放蕩」で死んだも同然となり、空虚な人生を送っていることでしょう。
一方、それほど人気のない人々についてはどうでしょう。私たちはどちらでしょうか。「人気」なるものは、表皮一枚ということもありえます。美しくないとか、最も人気があるわけではないからといって、本当は実にすばらしく・親切で・知的で・創造的で・同情的で・敬虔で・愛のある人々の多くを、私たちは知らないまま見過ごしているのではないでしょうか。書物と同じで、多くの人の内側にあるこのような資質を発見するには、時間をかけなければなりません。
これは、美しく、金持ちで、あるいは体格のよい男女のうちには、道徳的に優れた正しい霊を備えている神の人はいない、と言っているのではありません。しかし、ただ美しい顔をしているだけで、内側は空っぽという人々がいます。神の永遠の美性を養成する、大切な時間を彼らは取っていません。多くの者はサウルのようで、自分のために事を進め、神の事柄には無頓着です。彼は神の目やイスラエルの民の目には無となり、ついに神はサウルを退け、ダビデを選ばれました。
人気があり、美しく、金持ちが、皆内側から幸福なわけではない、ということも真実です。ある人は不安定で、人々からの拒絶と、心の傷を感じているにもかかわらず、彼らの外観から、また彼らがつけている仮面のために、誰もそれを知ろうとしません。彼らの外側が、内側の真実の深い傷を隠しています。本当にその人を知ろうとして、時間を取りさえするなら、彼らがあなたの助けと理解を必要としていたことを発見するでしょう。
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