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神は預言者サムエルにより、新しい王を選ぶことをお決めになりました。サムエルはベツレヘムに行き、そこで主に犠牲と礼拝を捧げました。彼は新しい王を選ぶために、エッサイの子らに自分の前を通らせました。背が高く、ハンサムな子らがサムエルの前に出ましたが、誰一人主の御旨にかなう者はいませんでした。
犠牲を捧げるためにサムエルが到着したとき、エッサイの長男・エリアブがそこにいました。サムエルは彼こそ主に油を注がれる者だと確信しました。「しかし主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」(第2サムエル16:7)
サムエルはエッサイの息子を全員見ましたが、主はその誰にも油を注がないように告げました。そこでサムエルはエッサイに「息子はこれで全部なのか」と、尋ねました。エッサイは遠くで羊の群れを養っている、若い子どもがもう一人いると答えました。サムエルが彼を連れてくるように使いを出し、ダビデがサムエルの前にやって来たとき、12節「主は仰せられた。『さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。』」
神はダビデのどこを見られたのでしょうか。ダビデは若くて小さく、血色の良い人でした。しかし、聖書は後にダビデを「彼はわたしの心にかなった者で、…」(使徒13:22)と記しています。そうです、確かにダビデもハンサムでしたが、神が求めたのは、神を人生の最重要事とみなす“心”だったのです。ダビデは神のことばを高く上げるために信任できる者でした。
私たちは、サウルもダビデも共に罪を犯したことを知っています。神は罪のゆえに、サウルを退けました。それにもかかわらず、神はダビデを赦し、彼を従うべき模範とされました。相違は何だったのでしょう。サウルは自分の罪の責任を取らずに、他の人々を責めました。それにひきかえ、ダビデは神の赦しを求め、神と共に前進し、主の前に身を低くしました。
私たちが失敗するとき、へりくだって赦しを求め、神の道に立ち戻り、進み続けることを神は欲しておられます。それは私たちが完全ではないこと、しかし神の道と義とを求めるべきことを意味しています。神は100%ゆだねることを望んでおられます。
神が召されたとき、100%その御心を行うと、私たちを信頼することができたでしょうか。これこそ神は心を見られるということです。この点でサウルは失敗し、ダビデは成功しました。あなた、また私のうちに、神に対する委託を見出すことができるでしょうか。
第二課:神は心をごらんになります。私たちも他人を評価するとき、この世が人々を判断するように、ただ外観によってではなく、神が人々を見るように、その心によって判断することが大切です。
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