● 彼らの存在は、主の目にどう映っていたのでしょうか。
それは前章のマタイ伝9章36節で明らかです。“羊飼いのない羊”として、そしてイスラエルの滅びた羊としての姿がそこにありました。
● 彼らの存在を、主はその心にどのように受け止められたのでしょうか。
“高い関心、心の底からの同情”で、助けなければならない、放ってはおけない存在として受け止められました。急ぎ、弱り果てて倒れている彼らを救い、囲いの中に迎え入れるために、働き手を派遣するという熱い愛で受け止められました。
主がこの地上に来られた第一義的な目的は、「失われたイスラエルの救いを実現するため」であります。しかも御自ら、天の御国の祝福と約束のみことばとして来られ、それをご自分の民に無償で与えるため、当然のなすべき行為として弟子たちを派遣されたのです。すべてを知り尽くされた上でのことでした。そして、弟子たちが受けた命令は「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただ与えなさい。」でした。
現代の教会の使命と役割=無償の賜物を分かち合う動機付け
私たち日本の教会は、自分たちの地域社会、そこに住む人々に対してどのくらい、見返りを期待しないで“ただで与え続ける役割”を果たしているでしょうか。私たちは、自己満足や教勢を伸ばすことのために伝道しているわけではありません。むしろ、主の御心にかなって、福音を世界の人々の間で輝かし(地の塩、世界の光として)、惜しみない主の愛を明らかにすることこそ、私たちの使命と役割にほかなりません。
これと同様に、私たち日本の教会が注目しなければならないのが、イスラエル民族への使命と役割です。
メシアとしてイスラエルに来られた主イエスの目には、この御国の福音がまずイスラエルの民に受け入れられ、そして彼らを通して全世界への宣教がなされる映像が、映し出されていたのではないでしょうか。
しかし、事態は逆転しました。彼らが主を拒み、福音を拒んだために、異邦人がまず無償の賜物で御国の福音の幸いを手にし、赦しの恵みにあずかったのです。それによって、イスラエル民族への福音宣教は、主なる神さまから大きな使命として、異邦人教会の手に委ねられたのです。
にもかかわらず、かつて歴史において、私たち異邦人教会はこの使命と役割を忘れ、イスラエルの民に対して罪を犯しました。主の御名によって彼らを迫害し、殺害することに手を貸したのです。……主の十字架の愛を知っていながら……です。その罪は決して小さくはありません。
神さまのイスラエルへの御旨は、「残された彼らが、みな救われること」(ローマ11:26)であると、私たちは聖書から学びます。今、私たち日本の教会がなすべきことがあります。それは、「主からただで受けた恵みと愛」を、「イスラエルの人々に対して同じく、ただで与える」という主のご命令に従うことであると確信します。 |