むしろ彼らと運命を共にした方が、ユダヤ人として生きる道なのでは……自分が生かされている意味を模索する彼は、こう結論付ける。
「では何をしたらいいのか? 考えに考えたすえ、ぼくは一つの結論に達した。ぼくが同胞の役にたてる唯一つの場所は、はるか向こうの、大切な、ぼくの愛する祖国だ。わが民族を助けたいというぼくの目的がかなえられるのはそこだけである。そうしてそれはぼくのただ一つの望みであり、生涯のあこがれなのだ。」(同書、P127-128)
この、見たこともない祖国に対する熱い希望は、幾つかの日記の随所で表されている。単なる言い伝えでは済まされない、神ご自身がユダヤ民族に植えた思いは、この子どもたちにも脈々と流れていた。思えば今のイスラエルは、そんな子どもたちが大きくなって建て上げた国なのだ。
子どもたち一人ひとりが、日記を通して、当たり前の日常の尊さ、命の大切さ、自分が自分でいられることがどんなに貴重か、というメッセージを伝えている。
今、日本の子どもたちは、どんなメッセージを発しているのだろう。そして彼らが直面する日々の危険と土台のない不安定さ……私たち大人はどうやったら受け止められるのだろうか。
ナチス・ドイツとは全く違った意味で、自分の子ども、他人の子どもの区別なく、正当化すべき理由もなく、小さな命が簡単に失われる日本。
そしてこの罪の循環は、これを見て記憶する今の子どもたちが大人になってからも、繰り返されるのだ。「終わりの世だから仕方ない」とは言えない、どこかで狂っているこの社会に、私たち日本のクリスチャンは今を生きる子どもたちの安全、良き将来を覚えて真剣にとりなし、またアクションを起こす局面に差し掛かっているのだと思う。主は両手を広げて子どもたちをご自分の御国に引き寄せようとしておられると感じる。
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