◆イエスさまと生きる幸せな日々
大好きな青い海と青い空の島、沖縄で、愛するご主人とイエスさまと共に生きる、第二の人生のスタート……どんなに幸せをかみしめたことであろう。白い砂浜を素足で歩き、打ち寄せる波と戯れて、透き通る青い海で一日中太陽と遊んだ。いつでも、どんな時でも二人で手をつなぎ、ゆっくりと歩く後ろ姿は、ほのぼのとした幸せ印になっていた。
そんな彼女の一番の楽しみは礼拝だ。どんなに身体がつらくても、ご主人におんぶされて礼拝に出席した。礼拝中何度となく心臓発作が起こっても、静かにニトロを口にしていた。例え血を吐くほどに苦しくても、神の家族と最愛なるイエスさまを礼拝できる恵みを思えば、病の苦悩を軽んじているようにさえ見えた。生きていることさえ不思議、と医師から言われるほど、彼女の肉体はガラス細工のように弱くもろい。が、しかし、内なる霊は生き生きと燃えていた。
幸せには幾通りもの姿があり、いつの世も人はそれを切望し生きていく。絶えず死と隣り合わせにある日々のただ中で、真実なる神の全き平安に包まれ、「こんなに幸せでいいのかしら」と言う彼女。親鳥の翼に包まれ安らぐ雛鳥のように、御父に自分を任せきっていたのだろう……。人が求めてやまない真の幸せこそ、苦悩の中から見いだすキリストの希望にほかならないのではないか。かつてまだ見たことのない、幸せの姿であった。
◆みことばに生きる
それにしても、神の愛に敏感に反応し、真実を感じ取る彼女の魂の豊かさは、父と子の何か非常に密接で神秘的なつながりを感じさせる。研ぎ澄まされるほどの自己凝視がなされている彼女の霊的成長の速さは、何度も生への望みを絶たれた中で、誰よりも生きることに真剣であったからではないだろうか。貪欲にみことばを慕い求め、みことばに縋り生きる彼女の姿に誰もが感動していた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)
食することがままならぬ彼女も、大好きなご主人のためには自転車で走り回り、食材を集め、自慢の手料理でおもてなし……。昼も夜もそんな妻の様子を見に帰るご主人こそ、結婚して初めて目にする妻の生き生きとした姿に誰よりも感動し、「神は生きておられる」と神を讃えずにはおられなかったであろう。
「わが子よ。わたしのことばをよく聞け。……それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。……いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:20-23)。正しいみことばが彼女の命の源となり、内なる命の力が身長を7センチメートル伸ばすという奇跡を起こし、神の栄光を現した。 |