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息子の贈り物
これも山形にいたころの話です。息子(現・チベット宣教師)がまだ幼いころ、私の誕生日に細長い筒をプレゼントしてくれました。開けてみると、料理に使う菜ばしが出てきました。「パパに1年間使ってもらいたいと思って、はしを買うことに決めたんだ。でも高くて買えなかったの。」と息子。
「最後の店に行ったけど、やっぱりどれも高くて……。でも、横を見たら、竹の筒に大きなはしが入ってたの。こんなに大きいから高いかなあと思って見たら、すごく安かったの。だから、お店で一番長いのを選んだんだ。パパ、大きくて立派でしょ!」 私は「……ちょっと大きくて使いづらいけど、今晩から使うよ。なんだか殿様みたいだな。ありがとう!!」と答えました。
手作りの誕生日カードが付いていて、それにははしの絵が描いてあり、「33センチ」と記されていました。息子が長さを測って記したのです。いかにデラックスなものであったかお分かりでしょう。
その菜ばしは、何十年過ぎた今でも、本箱の上に飾ってあります。
大人の感覚からすれば、父の誕生日に菜ばしを買うなどということはあり得ないことです。もっと気の利いたものをと思うでしょう。でも息子は、生まれて初めての父親への贈り物を、すばらしいものにしたいと思ったのです。お小遣いを全部はたいて、田舎の店を何軒も回って、一番デラックスで一番長いはしを買ってきてくれたのです。彼の発想は「愛」が原点でした。何とかして喜んでほしい……自分の愛を、感謝を伝えたい。
このはしを見るたびに、「そうだ、これでいいんだ」と思います。主の前に何かをしようとするとき、いかに格好が悪くても、何か的外れのように思えても、そんなことは問題ではない。何とかして、カルバリの十字架にかかって死んでくださった主イエスに喜んでいただきたい。――その愛の動機が働くとき、すべてが益となり、祝福となって変えられていく……そこに神の御業が成されるのです。
どんなに小さな信仰でも
昔、スコットランドで1週間の大伝道集会が開かれました。有名な牧師が毎晩のように火のような説教を語りました。しかし「イエスを信じる方!」と問い掛けても、皆、頭を下げ、石のように冷たい、何の反応もない会衆ばかりでした。
最後の集会になり、説教者は「もういくら語っても仕方ない。アピールをやめよう」とあきらめに入ってしまいました。しかし、終わりの祈りに入った時、聖霊が「今、語りなさい!」と彼に示されました。彼は会衆に「イエスを信じる方、手を挙げてください!」と語り掛けました。会衆は黙ったままです。もう一度、と、再度促しました。すると後ろの席の方で、大人たちの後ろに隠れていた少年が一人、小さな手を挙げました。
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