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命には命をもって償う―これが神の律法です。神の子であるアダムの罪によって、人間はのろわれ、病と死と争いの人生を歩むことになりました。ですから、罪を犯すごとに、命を失っていることになるのです。このため、古代イスラエル人は、神の御前に自らの身代わりとして動物の命を捧げ、罪の代価を支払い、一時的な罪の赦しを受けていました。これは、後に来られる方、主イエスを理解するためのひな型でした(ヘブル10:1)。
こののろいを取り除くには、もう一人の神の子が必要です。命には命=神の子には神の子です。霊的に死んでいる人間から罪を取り除き、再び生き返らせ、神の御許に帰れるようにするため、神はアブラハムをお選びになりました。そしてその子孫に、第二のアダムであるイエス・キリストがお生まれになるよう計画されたのです。「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」
(第2コリ15:22)
「『最初の人アダムは生きた者となった。』 と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」
(第2コリ15:45)
栄光の光そのものである神が、闇の中に入ることはできません。闇は神の栄光に打ち勝つことはできませんから、闇は神の御前から逃げ去るのです。そこで創造主であられる神が、闇の中にいる人間に手を伸べるために、人間の体をとって、イエス・キリストとして闇の世界へと飛び込んでくださったのです。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」
(マタイ5:17-18)
イエスは律法を成就するために地上に来られました。神がアブラハムとアブラハムの子孫に与えたかったのは律法ではなく、完全なる愛によって与えるあわれみによる
「義」 なのです。
◆神のみことば、メムラ
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
(ヨハネ1:1-3)
ユダヤ人は、創世記一章一節を「初めに神のことばが天地を創られた」と解釈しています。この場合の“言葉”には“メムラ”という単語が使われています。ユダヤ教では、このメムラを、「神に最も近い方。すべての創造主。また、聖書に書かれている神の現れは、すべてこのメムラを指している」
と説明しています。そして、それ以上の説明は、付け加えることができないと言っています。このメムラがどなたであるのか、それは新約聖書で初めて明らかにされています。(ヨハネ1:1) |