だからといって、将来目に見えるかたちで神の王国が到来しないと言っているわけではありません。ただ、神の御国が意味するものは、神のご支配そのものです。ご自分に従う人々の心や精神において、神はすでに統治を始めておられます。ですから『主の祈り』において、「御国が来ますように」と祈るとき、「神の統治が天において行われているように、この地上においても実現しますように」という意味があることを理解しましょう。それこそ主イエスが意図されていたことです。私たちはこの祈りを伝えられてきたとおりの表現で記憶し、これからも同じことばで祈り続けることでしょう。しかし、主の祈りを祈るたび、本当は何を意味しているのかを心に留めておく必要があります。
ユダヤ教には、「シェマ」という祈りがあります。この祈りの中にも、主の祈りと同じ考え方が現れています。ユダヤ教の祈祷書には、シェマの第2節は次のように記されています。
「(神の)栄光あふれる王権(=マルクート)の名に永久に祝福があるように。(直訳)」ラビたちは、このシェマの祈りを唱えることが、神の王国の支配に服する行為そのものであるとみなしました。言い換えれば、シェマの祈りは、日々の生活の中に神の王権が存在し、働いていることを再確認することであり、地上にある国家や外部環境とはまったく関係のないものでした。
◆「オル」―くびき
この奥義は、「神の御国」に関連する次の課題―「オル」(くびき)へとつながっていきます。
今どき、くびきという言葉は一般では使われていませんが、聖書では頻繁に用いられています。くびきとは、昔、荷物や車を引かせる目的で、二頭の牛や馬をつなげるため、そのあごに固定させた横木のことです。くびきを付けられることで、牛や馬は自由に動き回ることができなくなり、重い荷物を引かなければならなくなります。広義では、くびきはたいてい、その人の自由を束縛するものという、どちらかとしては否定的な意味で用いられています。しかし、聖書やラビたちの教えではどうなのでしょうか。
「すべての男性、そして女性は、天の御国の『くびき』を負う必要がある」とラビたちは教えました。また、「王国のくびき」「律法のくびき」という言葉を使いました。他にも「地上の国家のくびき」「悔い改めのくびき」「知恵のくびき」などなど、この言葉は、ラビたちが著した書物に好んで用いられました。
くびきを負わないことは、望ましくないことであるとラビたちは教えました。「くびきを負わない状態」、これをヘブル語では「ベリアル」と言います。聖書では、この言葉はよく「ベリアルの息子」という表現で用いられています。「ベリアルの息子」とは、邪悪な人物のことです。「キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。」(第2コリント6:15)。ベリアルはまた、サタンの同意語としても用いられることがあります。ラビたちが言っていることは、つまり、人は邪悪に陥らないために、何らかのよき「くびき」を負うべきであるということです。さもなければ、その人は自分の自我で動き回り、利己的な生き方をし、自分に向けられている神の御心に反抗することになるのです。
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