◆自分自身の罪や愚行による苦しみ
私たちは時に愚かな行動を取ってしまうことがあります。そんなとき、自分自身を厳しく責め立てます。たとえば、運転中に注意を怠り、他の車と衝突してしまったとします。そうなると、自分も、また一方の被害者(その人にとっては不本意な)も、苦しみを味わわなければなりません。また、自分自身や他の人に対して、苦々しい批判や意見が心の内側からわき上がってきます。これは痛みを伴う非常に強烈な種類の苦しみです。主の導きを求めないとき、私たちは概して苦しみに陥ります。神は己の間違いに気付くまで、間違った愚かな方向に進むのをお許しになります。さらに、己の罪によってもたらされる苦しみがあります。主に逆らい、主の道と反対の方向に向かうとき、結果的に私たちは苦しみます。信者にとって、時にこれが神の懲らしめを経験する原因となります。聖書に「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:6)とある通りです。
もちろん、神を信じない人々も、自分の罪に苦しみます。不幸なことに、彼らの苦しみは、この世界だけではなく、後にくる世界でも続くのです。
◆神の国のための苦しみ
おそらく最も不思議で、私たちを途方に暮れさせる苦しみは、神の国のために経験する苦しみではないでしょうか。この種の苦しみで、最も分かりやすい例は、主イエスの受けられた苦しみです。彼が地上に来られたのは、苦しみの意味を示し、罪人のために死なれるためでした(ヘブル2:9)。主は全きお方で、罪のないきよい方であったにもかかわらず、みじめな十字架の死を通過してくださいました。そして、私たちに苦しみの模範を残されました。使徒ペテロは次のように言っています。「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。」(I
ペテロ4:1)。またピリピ書1章29節には、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」と書かれています。神の国のために味わう苦しみは、私たちに与えられた、神からの贈り物なのです。
キリストが来られてから約300年間は、ほとんどのクリスチャンにとって、迫害は当たり前のことでした。彼らの高潔な指導者、ポリュカルポス(ヨハネの弟子)や、殉教者ユスティノス(シリア生まれキリスト教聖人・哲学者)などは火あぶりにされ、彼らの死体は野獣に投げ与えられました。313年のミラノ勅令(ローマ帝国が発した勅令。キリスト教徒の自由を許し、迫害時代の没収財産の補償などを定めたもの)が発令され、公の機関による迫害が終わるまで、何千人もの信徒たちが悲惨な最期を遂げました。
迫害されたのは、初期のクリスチャンにだけではありません。今日、多くの国で何百万ものクリスチャンが壮絶な迫害を受けています。スーダンのキリスト教徒たちは、イスラム政府により、組織的に排除されています。この数年スーダンでは、約150万人のクリスチャンが殺され、その他に100万人の行方が分からなくなっています。エジプトのコプト教会の信徒たちも、非常な苦しみを受けました。また、ベトナム・中国・イラク・イラン、そしてパキスタンのクリスチャンたちも痛烈に苦しんでいます。世界伝道協議会は、「キリストの時代から今日にいたるまで、殉教者が最も多いのが今世紀である。」と発表しています。
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