◆絶えず祈るパウロ
神への祈りを身につけたその後のパウロを見ると「祈ります。」「祈ってください。」「祈りなさい。」と各書簡で必ず祈ることを勧めています。またイスラエルの救いのために「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、。私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(ローマ9:1-3)と記しています。 ここでパウロは、イスラエルが神の人類救済計画の中で、中心的な立場にあることを示し、同胞のためなら、自分はキリストから捨てられてもいいと願う愛と大いなる痛みを訴えています。さらに、「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」(ローマ10:1)では、イスラエルの救いを祈ることを懇願したのです。
◆置き換え神学がもたらしたもの
教会には、どうして長い間イスラエルへの祈りがなかったのでしょうか。それは置き換え神学の影響です。「肉のイスラエルは捨て去られ、教会およびクリスチャンこそ、霊的イスラエルである。」と解釈されたからにほかなりません。キリスト教会が欧米の反ユダヤ主義に影響された組織神学を学んでいる限り、具体的イスラエルの救いについての祈りは、今後も欠落したままになるでしょう。
置き換え神学の影響は、ローマカトリックの宗教改革を成し遂げた、マルチン・ルターにさえ及んでいました。
彼が1543年に『ユダヤ人と彼らの虚偽について』という著書の中で、当時の見解をこう述べています。
「われわれクリスチャンは、この神に見放されたのろいの民(ユダヤ人)に何をするべきか。私は真実な思いを持ってあなたに忠告する。まずわれらの主と、キリスト教会の栄光のために、シナゴーグ(ユダヤ人の会堂)に火を放ち焼き払うべきである。そうすれば神にわれらがクリスチャンであることをご覧いただけるであろう。ユダヤ人の家は略奪され、破壊されるべきである。ユダヤ人の祈祷書やタルムードも没収し、奪い去るべきである。ユダヤ人のラビはのろいの下にある。今後は一切教えることを禁じ、違反するならその命を抹殺しなければならない。ユダヤ人はイエスを信じず、十字架にかけた。その彼らに、イエスは『あなたがたはまむしのすえ、悪魔の子である。』と語られたが、まさにその通りである。ユダヤ人の基本的権利のはく奪、職業の規定と罰則等を定め、このユダヤ人たちをわれわれの社会組織から取り除くべし。
最後に結論を述べよう。その領土にユダヤ人が住み着いている国の支配者の中に、私のこれらの政策がまだ生温いと考える、偉大で高尚な支配者がいるなら、その人はよりよいユダヤ人の取り扱いを考え出していただきたい。われわれはユダヤ人という耐えがたい悪魔的な束縛から解放される必要があるからである。」と、結んでいます。
|