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『もちろんありますよ。しょっちゅう犯します。まさに今、私は罪を犯す途中です』と彼は言い、実は、これから不倫関係にある女性と会うことにしてあると打ち明けた。
『罪を犯す人はどうなるのですか。』『地獄に行くことになるでしょうね。』『なのにどうして罪を犯し続けるんですか。』『やめられないんです。』『あなたの神は、そんなあなたをどうされると思いますか。』『アッラーは私を赦してくださると思います。』彼は、思い悩む顔で2回そう繰り返した。『どうしてアッラーは赦してくださると思うのですか』と最後の質問をすると、彼は悲しそうに首を横に振りながら言った。『わかりません。』」
覚えておいてほしい。イスラム教には罪の贖いがない。罪の赦しの根拠がない。永遠の命の確信がない。キリスト教がもっている、救いの希望のメッセージがイスラム教にはない。それというのも、イスラム教には救い主がいないからだ。
◆ジハード(聖戦)で死ぬことが天国へ行く確実な道
しかし、イスラム教には天国へ行く確実な方法が別にある。それは、ジハードで異教徒と戦って死ぬことである。クルアーンにはこうある。「さあ突撃せよ。(武装の)軽い者も重い者も、自分の財産と命を投げ出してアッラーの道に戦いなさい。」(同9:41)。「こういう人たちには素晴らしいものが十分に用意してある。彼らは栄光の道に歩む。アッラーが彼らのために、こんこんと川の流れる楽園を用意して、そこに永遠に住めるようにしてくださる。それこそ大いなる幸いではないか。」(同9:89、22:58)
クルアーンの描く天国は、肉欲を満たす官能的悦楽の世界である。イスラム教の宗教指導者には、ジハードでの殉教によってそんな天国へ確実に行ける、と若者を誘う者も多い。自爆テロが後を絶たない理由がここにある。
◆キリスト教の三位一体は、救い主と救いの保証を用意する
しかし、キリスト教には神の子キリストという救い主がおられる。その救いを保証される聖霊なる神がおられる。聖書においては「罪の支払う報酬は死である」とされるほど、罪は重大である。人間には負いきれず、そのままでは永遠の死(地獄)に赴くことになる。そこで人となって世に来られた、罪なき神の子キリストが人間の罪の身代わりになり、十字架にかけられて死に、「永遠の死」の恐怖を味わってくださった。私たちはそのキリストを信じることによって救われる。そして信じた時、与えられる内住の神、聖霊によって、その救いを確信できるのである。これは、聖書の神が三位一体だから可能なことである。
本来、クリスチャンは、救われているという確信によって平安と喜びの中に生きることができ、自分の救いのために何かをなさなければならない、という心理的圧迫はない。これが心の解放である。また、個人の心に与えられた聖霊なる神のゆえに、クリスチャンは誰でも、祭司や宗教学者でなくても、直接神と自由に交わることができる。これもまた、三位一体だから可能なことである。
イスラム教のアッラーは、まるで清濁併せのむように罪を赦すが、キリスト教と比べ、罪の重みが小さい。そんなに簡単に赦されるなら、人は罪を平気で犯すことになりかねない。そこでクルアーンは、善行も救いの条件に加えたのだろう。それが逆に、イスラム教徒から救いの確信を奪うことにもなってしまったといえるかもしれない。イスラム教に神の子キリストという救い主がいたなら、また、宗教指導者に教義や神の教えを独占されずに、聖霊によって神と個人的に交わることができたなら、自爆テロまでは起こさなかったのではないかと思う。
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