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BFPのスタッフに調べていただいたことだが、ユダヤ教徒は来世(0LAM
HAVA)を信じていて、この世はその来世に継続していると考えるそうだ。すべてのユダヤ人に来世に行く権利があるが、実際に行くには『生命の書』に自分の名が記されていなければならない。それに名が記されるためには、年1度のヨム・キプール(大贖罪日)に、1年分の罪を悔い改める必要がある。この悔い改めを怠ると『生命の書』から名前が外されてしまうので、あまり信仰心のない人でも、ほとんどのユダヤ人が、ヨム・キプールだけは厳格に守るという。悔い改めをしなかった人は、『生命の書』から名前を削除されたまま、翌年のヨム・キプールまで1年分の罪を背負うことになる。これが現代ユダヤ教徒の救われ方のようだ。
◆イスラム教には救い主がいない
次に、イスラム教は救いをどう教えているか。彼らの救いは、罪赦されて天国へ行くことである。クルアーンにおいては、この世のことはただつかのまであり、お遊びにすぎないとされる(クルアーン57:20)。この世はあの世のためにあるのであって、死んでからの世界のほうがはるかに大切なのである。その天国へ入る道は2つである。
一つは信じて改悛(かいしゅん)することである。アッラーは慈悲深いので、罪をすべて赦して天国に入れてくださる(同4:152)。クルアーンにはこうある。「そもそもアッラーは優しいお方であり、どんな罪でも赦してださる」(同22:59)。「正しい信仰をもち、善行をなす者たちは、こんこんと川の流れる楽園に入れ、永遠に住まわせよう。」「信仰篤き者は、男でも女でもすべて楽園に入り、ナツメヤシの皮一筋ほどさえも苦難に遭うことはない。」(同4:122、124)
そもそもイスラム教においては、キリスト教のいうような原罪はない。最初の人(アーダム)は神(アッラー)の命令に背いて楽園を追放されるまでは聖書と同じだが、その後は異なる。アッラーはすぐに思い直して、いとも簡単にアーダムの罪を赦してしまうのだ。「主はよく思い直される方であり、限りなく慈悲豊かな方である」(同2:35)と。アーダムの最初の罪は赦されたので、原罪はないことになる。だから、「アッラーは偉大なり」と告白すれば、それで罪赦される。
ところが、他のクルアーンの箇所を読めば、ことはそう簡単ではない。アッラーは同時に善行も赦しの条件として求めている。人はその行いに応じて裁かれる。自分の行った悪に勝る善を行えば、アッラーは天国へ送ってくださる。天国に行くには、信仰だけではなく、善なる行いも必要なのである。事実、イスラム教徒には5つの義務(信仰告白、お布施、日に5度の祈り、ラマダンの断食、メッカ巡礼)が課せられている。
つまり、「信仰をもち、かつ善行をなす人々に対しては喜びの知らせを告げよ。彼らは(天国に行く)」(同2:23、21:14)というのがクルアーンの結論だといっていいだろう。
しかし、これでは自分が天国へ行けるかどうかの確信がもてない。信仰はあっても、善行ばかりできないし、罪も犯してしまうからである。
アメリカの牧師であり、著述家であるJ・マッカーサーが、近著『テロリズム、ジハード、そして聖書』に、こんなエピソードを載せている。
「私はイスラムの男性と飛行機の中で交わした会話を忘れることはない。私は彼に尋ねた。『罪を犯すことがありますか。』
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