当時バビロンには、ネブカデネザルによって征服された諸民族が、捕囚の民として暮らしていた。彼らは自分の民族の神々を持ってはいたが、ためらいなく金の像を拝んだ。しかし、唯一なる神だけを信じていたユダヤ人のシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人だけは拝むことを拒否した。王は当然激しく怒り、3人を燃え盛る炉の中に入れた。しかし、決して王は彼らの唯一神信仰を捨てることを迫ったわけではなかった。ただ彼らが「私の神々を拝まず、私が立てた金の像も拝みもしない」(ダニエル3:14)がゆえに罰しようとしたのである。
ダニエルも、ペルシャ王ダリヨスの側近が王の名で出した「30日間、王だけを拝め」という命令に反し、ライオンの穴に投げ込まれている。またエステル記に登場するモルデカイも、やはりペルシャ王アハシュエロス王の時代に、主なる神以外のものを拝むことを拒否して、ユダヤ民族全体を存亡の危機に陥れている。そのときはいずれも、主の助けで危機を回避した。
しかし、多神教・多元主義拒絶の態度を取り続けた結果、ついにはユダヤ人の国は滅びることになる。紀元1世紀、ローマ帝国の支配下に置かれたユダヤ人は、ローマ皇帝崇拝を強要されたが、それを拒否して武力で抵抗した。そのためローマ軍にエルサレムを破壊され、祖国を追われ、以後世界を1900年間近くさまようことになったのである。
◆宗教多元主義はキリスト教会内の最大の敵
もちろんキリスト教にとっても、宗教多元主義は敵である。しかし、キリスト教会にこうした考えを持ち込んだのは、キリスト者自身である。キリスト教界の宗教多元主義者は、キリストの十字架によらずとも他の神々を信仰することで救われるとし、キリスト教から「キリスト」を骨抜きにしてしまった。そうすれば、もはやキリスト者であるがゆえに他宗教から迫害されずに済むのである。しかし、それはキリスト信仰の「自殺」である。
また多元主義者たちは、キリストのみを信じるクリスチャンを迫害した、歴史的事実を故意に忘れている。日本による朝鮮統治時代、日本の多元主義キリスト者が朝鮮の教会に神社崇拝・天皇崇拝を推奨したのである。その時も、当時のリーダーの一人は、「日本政府は基督信仰を捨てろと言っているのではない。ただ、皇居に向かって遥拝せよと言っているにすぎない」といった言い方をした。それを拒否した韓国・朝鮮のクリスチャンの多数が殉教した。
多元主義に立つキリスト者は多い。そのほうが物わかりのいい平和主義者に見えるし、日本の世間一般に受け入れられて楽である。心の広い人とも思われるだろう。しかし、すべての真理は相対的であり、どの神も絶対視してはならない、という宗教観から信仰の力が生まれるだろうか。クリスチャンは、単なるキリスト信仰かそれともキリストのみの信仰か、常に問われている。クリスチャンは宗教多元主義と妥協してはならない。多元主義の風潮に譲歩せず、聖書の人々の信仰を継承しなければならない。
ニ、イスラム
次はイスラムである。ハンチントンが述べているように、今後の世界にとって大きな脅威となるであろう。たとえば、彼によれば、15歳から24歳までの「若年人口の激増現象」がイスラム諸国では顕著なのだそうである。歴史的に見ても、この世代の若者が人口の20パーセント以上を占めると社会は不安定になり、暴力や紛争がエスカレートする傾向がある。イスラム諸国ではこの20パーセントに到達しつつある。しかし、私が言うのは政治的な脅威ではなくて、宗教的な側面における脅威である。
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